牧野成定
牧野 成定(まきの なりさだ、大永5年(1525年) - 永禄9年10月23日(1566年12月4日))は、三河国宝飯郡牛久保城の城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎)の子(寛政重修諸家譜)。初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。 通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという[1]。正室は未詳。母は某氏の女。
概要
牧野成定は戦国時代の東三河宝飯郡の牛久保城を拠点とする国人領主で牛久保城主。
祖父成勝の頃から既に今川氏の勢威に服していたが、成定が城主であった永禄4年(1561年)4月には今川氏から独立した徳川氏(松平氏)の進攻をうけ、他の東三河国人衆が概ね徳川氏に転属したのに対し成定は今川氏への従属を強め、居城牛久保に今川軍の駐留を受け入れた。また、吉田城の今川軍に対しても兵糧などの調達に協力、自らも今川方の先鋒として徳川軍に対し激しく交戦した。
しかし、永禄7年(1564年)には東三河の今川軍はまったくの敗勢となり、永禄8年(1565年)春、牧野氏は降参(改正三河後風土記、牧野等国士降参付)
牛久保城主継承とその背景
大永5年(1525年)、牧野保成(出羽守)の一族である牧野氏成(新九郎)の子として生まれた。 1556年(弘治2年)、牛久保城主であった牧野貞成(民部丞)が今川氏に逆心(反乱)した(弘治2年2月今川義元発給文書)ことにより牛久保城主の地位を失ったと考えられ、今川義元の差配によりその後継は右馬允(成定)となった[2]。
成定は前城主である貞成の実子ではなく、『寛政重修諸家譜』(巻第364)等によれば一族・牧野氏成の子である。『牧野家譜』等によれば[3]、養父の貞成は今川氏に親密であった牧野保成が今川氏の援助で天文15年に吉田城を回復したこと(しかも吉田城の実権は今川方の城代小原鎮実(肥前守)で実質は今川氏の属城)に反発、国人領主としての自立を望む貞成は今川氏へ逆心し三河の名族の吉良氏を頼り、弘治2年西尾城主吉良義昭の誘いにより吉良氏の属城の西尾城に入り守将となる(これは他の東三河国人衆が織田氏への内応をめぐり分裂混乱したのと同一傾向である)。
この時、吉良義昭は尾張の織田信長の調略に同意していたため、今川義元は松平氏を含む今川軍を派兵し荒川城を拠点に西尾城を攻撃、陥落せしめた。この時の西尾城攻撃を直接記す史料ではないが、弘治2年3月に織田信長が幡豆郡の荒川に軍事行動を働き、これに対し今川方の迎撃軍は馬頭原で織田軍と交戦したことを示す松井忠次宛今川義元感状が存在する[4]。西尾城を脱出した貞成は本拠牛久保に撤退した[5]。
貞成はその後、蟄居隠棲の身となった(遠州宇津山城ともいうが疑問、実は三州八名郡照山が有力)。貞成には実子が有ったようであるが、今川義元は相続を認めず、前記のように新九郎氏成の子を後継とした。これが成定である。 成定の実父新九郎氏成の詳細は不明である。
西尾城へ入城
成定は今川氏に属したので、尾張清洲城の織田氏と対立する今川義元の命により、弘治3年(1557年)より5ヶ年の年限で吉良氏の属城の西尾城の守将となる。これは、前年に吉良義昭が織田信長と結び、義昭自身は東条城に移り(「牧野家譜」)、成定養父の牧野貞成を西尾城に招いて今川氏に反抗して敗れたため、義元がその事後処置として西尾城に親今川派の牧野成定を入れたと推定される (もっとも、義昭の東条城入城は天文18年(1549年)の安祥城攻略に関連した今川氏の措置という説がある)[6][7]。
徳川氏進攻への抵抗
約定の期間満了前の永禄3年(1560年)5月19日に今川義元が、桶狭間で戦死。その翌年、永禄4年(1561年)4月、織田信長と結んだ松平元康(徳川家康)は西尾城を昼夜問わず攻め、成定は牛久保に撤退した[8]。
一方の成定留守中の牛久保城には、事前に東三河国人衆を調略したうえで松平軍(およびその協力者)が奇襲をかけたので、城方は壊滅の危機に陥った。
しかし、稲垣重宗はじめ数名が敵中より牛久保城に馳せ戻り、真木父子等の留守衆と共に奮戦して、辛うじて城を死守。[9]。
この牛久保・西尾同時攻撃より始まった松平元康の東三河地方への進攻に、成定は叔父牧野出羽守保成と共に、激しく抵抗する。
永禄4年5月28日、牛久保衆をふくむ今川軍諸隊は富永口に出撃、松平軍と交戦したが退却している[10]
同4年7月29日、今川軍は三河設楽郡野田城を攻め立てた上で、開城降伏勧告。城主菅沼定盈は野田城を放棄、豊川対岸の親戚西郷氏を頼って撤退した。ただ今川軍は、引き続き行われた田峯菅沼氏への征伐に失敗し、明け渡された野田城の城代に成定家臣の稲垣半六郎氏俊(稲垣重宗・氏連たちの弟)を置くに留めて、奥三河への仕置きを終えた(『菅沼家譜』定盈の項より)[11]。 。
翌5年になると松平元康軍と今川軍の東三河をめぐる攻防戦は更に本格的なものとなる。
今川氏真は設楽氏・菅沼氏・西郷氏等の東三河国人領主への調略活動の中心人物本多信俊(百助)を討つ必要が生じた。すなわち氏真自身をして「三州錯乱」と呼ばしめたこの混乱を鎮定するために東三河に氏真自身が出馬することになるが、同年2月氏真は三州設楽郡の富永攻略に成功するが一宮砦の戦い・本野原の戦いでは元康に完敗した。 [12]
同5年5月7日には松平軍は富永を攻撃、牧野成定が自ら太刀打ちするほどの激戦となったが持ちこたえた。[13]。またこのとき、成定家臣の稲垣重宗・能勢甚三(後、稲垣に改姓)・真木清十郎(越中守定善)・池田小左衛門等が力戦して、遂に松平軍を退却させる高名を残したとされる[14]そして、成定は同年5月28日に富永より牛久保に帰城したとされる[15]。
同年6月2日には野田城が松平方(西郷氏)の援助を受けた菅沼定盈による夜襲で奪還され、城代であった稲垣氏俊は討ち死にした[16]。
同5年9月29日、御油台(東岡)合戦で酒井忠次の松平軍を敗走させたが松平元康の本隊には敗れ、これに続く八幡・佐脇合戦で東三河の駐留今川軍は惨敗、主将板倉弾正・板倉主水は戦死した[17]。
また翌6年3月の牛久保城外の戦いで、叔父牧野出羽守保成と稲垣重宗が負傷、稲垣は一命をとりとめたが、牧野保成は死亡した(戦死諸説あり)。今川方敗勢のなか、牛久保牧野氏はいよいよ孤立して苦戦する[18][19]。
同7年春より、一揆鎮圧に成功した家康の東三河進攻が再開、成定は駐留今川軍の最大拠点吉田城(かつての今橋城。もと牧野氏支城)へ救援の兵をさしむけるが、効無くやがて落城(永禄8年3月)。今川方の主将(城代)小原鎮実は遠州宇津山城に撤退した。完全孤立無援の牛久保城において、牧野成定はなおも今川氏への忠節を変えずにいた。(この頃、東三河で今川方の国衆は成定と作手の奥平貞勝のみであった。)
徳川氏に降伏
永禄8年(1565年)春、牧野氏は降参(改正三河後風土記、牧野等国士降参付) なお異説として、『牛窪密談記』には、永禄8年(1563年)丑、徳川家康に牧野成定(右馬允)が属したとの記事がある。また、『牛窪記』には、永禄8年3月17日の丑の吉祥日に、牧野定成(山城守)・康成(宗次郎)を先として真木氏・岩瀬氏など牛久保寄騎が城主牧野家名代として家康に謁見したと記述している[20]。 [21] [22]
成定の死去とその後
服属後、病身の場合は岡崎に出仕に及ばずとの沙汰を受けたが、まもなくの10月、にわかに病が重くなり同23日死去。享年42。
成定死後、松平家康は後継に嫡子・牧野新次郎(康成)を指定。しかし新次郎はその時まで牛久保に不在であったらしく(永禄9年11月牧野山城守以下牛久保年寄7名あて水野信元副状に一両年駿州に留め置かれたとある)、保成の子と思われる牧野出羽守(成元または成真とも)と遺領後継の紛争となる。出羽守は今川氏真の、新次郎は家康の支援をうけたと思われるが、新次郎が勝利し跡を継いだ[23]。
家族
- 男子;戸田一西。『三河国田原近郊聞書』によると、戸田一西は牧野新次郎の子であるとしているが、史料学的根拠に乏しく俗説の一つである。
墓所・霊廟
法名は養修院殿教誉皎月光輝大居士、葬地は牛久保光輝院(愛知県豊川市千歳通4)、追善墓が大胡養林寺所在。
牧野出羽守保成との関係
成定は、牧野出羽守保成の甥とされる。それは養父の民部丞貞成が実は保成の実弟だからである。保成と貞成は『牧野系図』(長岡市中央図書館所蔵)では共に牧野成種(出羽守)の子とされる。はじめ保成は新二郎、貞成は新四郎(新三郎とも)称したとされ、後に貞成は牛久保城主牧野民部丞成勝(氏勝)の養嗣子となる。
しかし貞成は1556年(弘治2年)今川氏に逆心して蟄居の身となり、養子の成定が牛久保城主となると吉田城との関係は緩和し、今川氏の親任厚い保成(奥平松平文書)の主導のもと、牛久保牧野家もまた今川氏の三河経営に組み込まれていく。 当初、成定は今川氏とは距離を保とうとした節が見えるが、稲垣、山本、贄などの主要な家臣らが今川氏より直接に知行を給付されるに及び、1561年(永禄4年)より今川氏への忠節を決意する(「永禄4年7月11日孫五郎以下3名宛牧野成定証状」;『岡崎市史6・資料編中世』所載)。
こうして、成定と保成は、今川氏への忠節により堅く結束することになるが、これが悲劇の始まりとなる。(なお、永禄8年3月6日牛久保合戦に今川方出羽守保成を徳川氏に内通した右馬允成定が殺害との異説がある。[24])。
脚注
- ^ 通称は新次郎、右馬允、民部丞が伝えられているが、現在知られる、彼の生存期間中(1525~1566)の古文書(同時代文書)には新次郎と記すものは未見であり、右馬允については天文22年(1553)の大恩寺阿弥陀堂棟札の牧野右馬允がもっとも古く(但しこれに続く実名は成守のため養父貞成の可能性もある)、永禄9年(1566)11月の水野信元が牛久保寄騎6人に宛てた牧野康成家督相続承認の副え状に「今度牧野右馬允殿就死去」とあるのが終見であり、本人がこの時点で死亡していることから、成定が生存中に民部丞を称した可能性は極めて低く、牧野民部丞と記された天文期から永禄期の古文書は祖父成勝(天文5年(1536)11月15日若宮八幡宮寄進状までか)、または父貞成(永禄5年(1562)8月死去の可能性がある)のものとすべきである。
- ^ 筆者・新行紀一によれば、弘治2年2月、牛久保・牧野民部丞が義元に反き、「民部丞は所領を没収され追放」と推定。→参考文献の2、800頁「弘治合戦」。
- ^ 参考文献の5、国会図書館請求No.118-191。
- ^ 下記参考文献の4、『今川氏と観泉寺』 567 - 568頁(東条松平文書・37)「弘治二年九月四日今川義元感状(…去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦…」により「牧野家譜」にも記述される、反織田方である荒川氏居城八面山(荒川山)城を含む西尾城付近で織田軍対今川軍の戦闘が行われたことが判る(但し、『岡崎市史』ではこの戦闘を安城市野寺付近としている)。
- ^ 新行紀一は吉良義昭の織田信長への内通と対今川氏の反乱は弘治2年4月であると指摘している。→参考文献の2、800頁。
- ^ 天文18年、吉良義安は今川方に降伏し駿河に移されたが、弟・義昭はなお西条城に居たとする。→参考文献の2、799頁
- ^ 吉良義昭の西条城から東条城への移居および牧野新次郎(成定)の西条城入城は弘治2年4月の降伏後に今川氏の差配とする。
- ^ 「牧野新次郎も、こらえ切れずに、城を明け渡して、牛久保へ逃亡する」(『三河物語』)。
- ^ このときの困難な戦いを真木氏は、槙文書として、伝えているが、(戦後、稲垣重宗は今川氏真に謀反の嫌疑を受けるが、成定が重宗に誓紙を書かせた上で逆にその忠節を訴えて弁護した。それにより氏真は了承し一転恩賞を出す一幕もあった)。
- ^ (永禄5年8月7日付稲垣重宗宛今川氏真感状「去年五月廿八日富永口へ各相動き引退き候刻・・・」(『岡崎市史6・資料編』所収)。この時牧野成定の家臣は稲垣重宗が高名し今川氏真の感状を受けた。後に越後長岡藩士となった、稲垣重宗等牛久保衆の末裔たちは、先祖の功績として、この富永口戦功をあげている者が少なからず存在する。なお富永という地名は存在するが、富永口合戦の場所を設楽郡(新城市野田)の野田城近くや、野田城そのものとする説などもあり、合戦があった所在地は諸説があって断定できない。
- ^ また永禄4年7月に、今川氏真が、西郡在番を命じたが、稲垣重宗の弟・稲垣氏連(林四郎)等4-5名が牛久保を退き、元康(=家康)の下に属したため、牧野成定が隠居を決意したとする説(『岡崎市史 2』(中世編)、819頁→参考文献の2)もあるが、成定はその翌年も「富永在番」・「三州八幡合戦」などに今川方として奮戦している(以下、永禄5年の項を参照)。
- ^ 永禄5年8月7日付け稲垣重宗宛今川氏真感状に「去る二月三州出馬の砌…(略)…」(『岡崎市史6・資料編』所収)と氏真自身の出馬を示す内容がある。これは、父義元の戦死後の混乱収拾に努めていた今川氏真が、永禄5年(1562年)2月に自ら1万余の今川勢を率いて東三河に発向したが、このとき氏真は三浦義鎮(右衛門大夫・右衛門佐)に兵を分かち、これを稲垣重宗が案内しておこなった富永(設楽郡)攻めの際の感状である。 『寛政重修諸家譜』(巻第684)によれば、一方の氏真本隊は本多信俊(百助)以下の松平兵約600が籠もる、宝飯郡の一宮砦(豊川市一宮町)を包囲したが、本多信俊救援に自ら出陣した松平元康と牛久保領内であった宝飯郡一宮および本野原において直接対決して大敗・退却した。この合戦を永禄7年(1564年)6月以降とし本野原では氏真から8千の兵を託された武田信虎が戦ったとするが(参考文献の4、236頁・本多信俊の項)、『新編 岡崎市史2』の筆者・新行紀一は、氏真の東三河出陣を永禄5年2月、駿府への帰陣は同年6月で駿府で武田信虎の謀反の噂があったためとする(→参考文献の2、821-822頁)。
- ^ 同じ永禄5年8月7日付稲垣重宗宛の別の今川氏真感状に「去五月七日、牧野右馬允富永在番の刻、敵相動くの処、右馬允自身、刀切ら令む・・・」(前掲『新編 岡崎市史6』 所収、「牧野文書6」)の文言がある。これは、前掲感状では今川軍の富永攻略は成功し、そのあと牧野成定が富永を在番していたのを今度は松平方が攻めた際のものと推定される。
- ^ 「牧野家譜」・「牧野家御略譜」(『長岡市史叢書35』)による。ただし、この戦いを永禄4年の出来事として記す。
- ^ 成定の牛久保帰城→参考文献の2、821頁、なお、富永における今川・松平両勢の攻防関連の古文書は参考文献の3、1066-1067頁(「牧野文書5・6・7」)
- ^ 稲垣半六郎(氏俊)→参考文献の1、389頁(「寛政重修諸家譜」清和源氏支流稲垣氏の項)。
- ^ 参考文献の2、822頁。
- ^ 松平元康の牛久保攻め→参考文献の2、822頁。
- ^ この年、西三河で勃発した三河一向一揆によって松平家康は危機に瀕するが、今川氏真も西遠で曳馬城主の飯尾豊前守連龍から反乱を起こされていた。これには三浦正俊に託した大規模な征伐軍を動員し対応するが、犠牲を払いながら攻略に失敗。しかも、この手並みの悪さが拍車を掛けた不穏な情勢は西遠一帯に広まってしまう。遠州の宇津山城主朝比奈直次(孫六郎。本来の表記は眞次か)、飯尾連竜の縁戚である二俣城主松井宗親等の今川方重臣が相次いで反乱を起している状況であった。この西遠鎮定に忙殺されていた氏真は、せっかくの逆転の機会を逸している。むろん牛久保城への後詰めも不可能であった。
- ^ 参考文献の9、「牛窪記・巻之下」、253-254頁。
- ^ 『牛窪密談記』や『牛窪記』の永禄8年(1563年)丑、徳川家康に牧野成定(右馬允)が属した(あるいは家康に謁見した)との説は、「寛政重修諸家譜」巻364・牧野成定の項、および同・巻384・稲垣長茂の項(参考文献の1)の永禄9年5月に成定が岡崎に参向・帰属したという記述とは一見矛盾する。また、参考文献の10、稲川明雄論文「長岡藩筆頭家老稲垣氏の系譜」では「稲垣氏家譜録」引用文において、永禄8年に稲垣長茂等の牛久保寄騎衆が家康に召されたときに、岡崎に宅地を賜ったとの内容や同年4月には長茂の父・重宗が成定に諫言を奉じたとの記述もある。
- ^ その一方、『牧野家家譜』(下記参考文献の5)では、永禄9年に成定が城の前後に敵(岡崎勢)を控えた中、今川氏真に援軍要請の書簡を送ったが氏真から手勢が少なく後詰めが困難との返事を受けたのをきっかけに、5月9日の岡崎参向を決めた有り様が記述されている。「…永禄九丙寅の年、右馬允成定前後に敵を受て防戦の術、心の如くならず。因て氏真に後詰めを乞ふ…氏真の答云、…牛久保ばかり今に別心なきの条祝着の至也。去ながら駿州無勢なれバ面目なく候へ共、後詰ハ成がたきのよし申越る。…」(下記参考文献の6、10 - 11頁、「御家譜、自成勝公・至忠雅公」よりの筆者今泉の引用文を一部抜粋)。これらの記述から、永禄8年(1563年)丑の謁見は、家康の仰せを受けた牛久保六騎の寄騎衆のもので、これを踏まえて城主・牧野成定自身の家康謁見が翌年5月に実現されたといえる。
- ^ 出典→『新編岡崎市史・史料編6』、所収「牧野文書13、水野信元書状」(原文書、「水野信元書状」(国立公文書館蔵)、および参考文献の6『長岡の歴史・第1巻』、12-14頁の記述。
- ^ この異説については郷土史研究家の大島信雄が、「越後長岡と東三河」(『東日新聞』H15/06/24-26)のうち、第177話「保成謀殺説の系譜」に牛久保上善寺の「上善寺由緒記」・「牛久保長山記」・「朝野旧聞裒藁」の記述を挙げてこれを解説している。
参考文献
- 堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第六 』 続群書類従完成会、1964年。
- 新編岡崎市史編さん委員会編 『新編岡崎市史 2 中世 』、岡崎市、1989年。
- 新編岡崎市史編さん委員会編 『新編岡崎市史 6 古代中世史料編 』 岡崎市、1983年。
- 堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一 』 続群書類従完成会、1965年。
- 今泉鐸次郎 編 『牧野家譜』(上)〈長岡史料第1輯〉 長岡史料刊行会、1921年。
- 今泉省三 著、『長岡の歴史 第1巻 』 野島出版、1968年。
- 観泉寺史編纂刊行委員会編 『今川氏と観泉寺』 吉川弘文館、1974年。
- 煎本増夫 『戦国時代の徳川氏』 新人物往来社、1998年、ISBN 4-404-02676-5。
- 久曽神昇、 近藤恒次編 『近世三河地方文献集』、国書刊行会、1980年。
- 長岡郷土史研究会 編 『長岡郷土史 第23号』 長岡郷土史研究会、1985年。
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