いろは樋
いろは樋(いろはどい)は、寛文2年(1662年)埼玉県志木市の新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋である。野火止用水の水を新河岸川を跨ぎ越して、宗岡地区に導いた[1]。
経緯
[編集]新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と恒常的な農業用水不足に悩まされた。この地域を知行していた旗本、岡部忠直は、現志木市本町(旧引又)から新河岸川に無効用水(末流)が流れていたのを見て、家臣の白井武左衛門に命じ、新河岸川に総延長126間(260 m)の水路橋を架設した。樋は船の通行を妨げないようにするため、水面から4-5メートルの上方に架けられた。[2]。
主な建造物
[編集]- 小枡(こます)
上流より流水して来た野火止用水を一旦貯め、地形を利用して上部の筧より勢いよく落とす。
- 大枡(おおます)
小枡より流れてきた水を一旦貯め、上部の筧より勢いよくおとす。
- いろは樋
大枡より勢いよく流れてきた流水を上向きの筧(登り竜)に登らせ新河岸川を越える。この時の水路橋の柱が48本あったので伊呂波47文字にちなんでいろは樋と呼ばれた。
宗岡潜管
[編集]いろは樋は新河岸川の度重なる洪水によって何度も崩壊していくうちに修復に使う費用の負担も大きく、また、樋に使用する巨材の調達も次第に難しくなったため、1898年(明治31年)からのいろは樋の工事では木管を鉄管に変え、従来の水路橋ではなく川底に通していく伏越工法(ふせこしこうほう)を採用した。それと同時に小枡、大枡を従来の木製からレンガ製に替えた。川を越えた宗岡地区側にも流水受取口の大枡が設置され、総延長60間(109.1 m)の宗岡潜管が完成した。
衰退期
[編集]1949年(昭和24年)衛生状態を確認するため埼玉県内を巡回していた占領軍埼玉県軍政部衛生課長グラディス・W・ローラが野火止用水の細菌検査を実施した際、飲料不可の結果が出された(ローラの「不潔宣言」)。また1951年(昭和26年)に当用水路を飲料水にしていた新座市野火止の住民50人が赤痢になった。これらによって上水道の普及が進み、野火止用水は1965年(昭和40年)に下水道管となり、宗岡潜管との接続を遮断した。
末流
[編集]いろは樋から来た用水は宗岡地区を樹形図状に分かれていた。現在流路跡がわかるのが、中宗岡一丁目交差点~宗岡小学校前にある一里塚を左に曲がり、産財氷川神社付近まで続いている石蓋の歩道がその名残である。
史跡
[編集]明治期の大枡が現存しており、志木市指定文化財に指定されている。他に江戸時代期のいろは樋の図式が残っている。これも志木市指定文化財に指定されている(いろは樋の絵図)。
その他
[編集]志木市本町市場坂上の信号付近に小枡、大枡、いろは樋、いろは樋の縮小模型(江戸期のもの)が展示され、当時の様子を忠実に再現している。また中宗岡1丁目宗岡交番の脇に明治期の受取口の大枡と宗岡潜管の一部が展示されている。志木市立郷土資料館の敷地内にも、1978年に行われた柳瀬川[3]の改修中に川底から発掘された潜管が展示されている。また、いろは樋が架かっていた場所の近傍に道路橋のいろは橋が架かるが、その親柱にはいろは樋のレリーフが掲げられ、その欄干はいろは樋の桁を模したデザインのものとなっている。
脚注
[編集]- ^ 国史大辞典(吉川弘文館)、野火止用水の項。
- ^ 「志木市の歴史」 志木市公式ウェブサイト。
- ^ かつてのいろは樋付近の新河岸川は屈曲しながら現在の柳瀬川の位置を流れていて現在とは大きく異なっていた。詳細は外部リンク節の「今昔マップ on the web」を参照。
参考資料
[編集]- 志木市立郷土資料館資料
- 志木市教育委員会
関連文献
[編集]- 斎藤長秋 編「巻之四 天権之部 宗岡里 内川」『江戸名所図会』 3巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、70-71頁。NDLJP:1174157/40。 -- 挿絵にいろは樋が描かれている
外部リンク
[編集]- いろは樋 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分) - 有限会社フカダソフト(気まぐれ旅写真館)
- 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト『いろは樋』 - コトバンク
- 今昔マップ on the web - 埼玉大学教育学部
座標: 北緯35度50分6.3秒 東経139度34分47.9秒 / 北緯35.835083度 東経139.579972度