おはよう・にっぽん
おはよう・にっぽん | |
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ジャンル | ワイドショー |
企画 | 自由企画(1967年2月 - 1968年3月) |
出演者 |
小林桂樹 ほか |
製作 | |
制作 | TBS |
放送 | |
映像形式 | モノクロ放送(但し、1967年8月15日のみカラー放送) |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1966年1月31日 - 1968年9月13日 |
放送時間 | 月 - 金曜 8:00 - 9:00 |
放送枠 | TBSテレビ系列平日午前のワイドショー枠 |
放送分 | 60分 |
特記事項: 報道局特別制作部の制作。。 |
『おはよう・にっぽん』は、1966年1月31日から1968年9月13日までTBS[1]の制作によりTBS系列9局で毎週月 - 金曜 8:00 - 9:00(日本標準時)に生放送されていたワイドショー(ニュースショー)番組である。モノクロ放送(但し、1967年8月15日放送「終戦特集」のみ特別にカラー放送)。
タイトルについては、“・”(中黒)が省かれ、「おはようにっぽん」と表記される場合[2] や、“・”の代わりに“、”(読点)が入り「おはよう、にっぽん」と表記される場合[3] もある。
概要
[編集]1965年12月に報道局内で特別制作部が設けられたことにより、NETテレビ『モーニングショー(第1期)』、NHK総合テレビ『スタジオ102』、フジテレビ『小川宏ショー』に次ぐ平日朝のワイドショーとして開始[4]。TBSでは、前年4月10日開始の『土曜ロータリー』に次ぐワイドショー番組であった。メイン司会者に小林桂樹を起用して主婦層からの支持を狙った[4] ほか、大韓民国へVTR車を送り込んだ「おはよう韓国」シリーズなどの取材企画を組んだ[4]。このほか、人生相談コーナーも設けていた[5]。
開始年にイタリアからネズミの人形劇キャラクター「トッポ・ジージョ」が紹介された[6][7][8] ときは、全国的人気となった[9]。だが、先発番組との差を埋められぬまま終了した[4]。
終了前の5日間に放送された、特別制作部部長の宿谷高彦以下メンバー総動員で制作された企画[4]「日本を考える」シリーズは、その問題提起を行う内容から評判を集め[4]、放送批評懇談会より第6回ギャラクシー賞第6回期間選奨に選ばれた[10]。
出演者
[編集]●…『TBS50年史』資料編P217の歴代テレビ番組一覧表内「主な出演者」欄に掲載された人物
司会者
[編集]ニュースキャスター
[編集]制作スタッフ
[編集]ネット局
[編集]- 東京放送(現:TBSテレビ、制作局)
- 東北放送
- 新潟放送
- 中部日本放送(現:CBCテレビ)
- 朝日放送(現:朝日放送テレビ)
- 山陽放送(現:RSK山陽放送)
- RKB毎日放送
- 大分放送
- 琉球放送(放送当時はアメリカ合衆国の施政下)
以上の9局ネットで放送されていた。
TBS系列局でも、大部分の局は『モーニングショー(第1期)』をネットしていたため、ネット局は少なかった。その中でも東北放送は本番組を放送していた期間中、『モーニングショー(第1期)』を録画時差ネットとする異例の対応を取っていた。
新潟放送・大分放送・琉球放送は本番組の放送終了後、『モーニングショー(第1期)』のネットに移行した。
2024年7月現在、同時間帯で放送されているレギュラー番組は朝日放送(朝日放送テレビ)を除く8局では『ラヴィット!』を、朝日放送(朝日放送テレビ)ではテレビ朝日制作の『羽鳥慎一モーニングショー』を放送している。
備考
[編集]- トッポ・ジージョは、1967年には火曜 18:00 - 18:30に同名の独立番組が放送開始[9]。また、映画化(タイトルは『トッポ・ジージョのボタン戦争』)もされ、本番組の司会として共演していた小林はナレーションを担当した。
- 8月の全国高等学校野球選手権本大会期間中に、例年本大会の全試合を中継している朝日放送(当時はTBS系列の在阪準キー局)の技術協力によって、本大会の舞台である阪神甲子園球場の1塁側アルプススタンドからオープニングを放送したことがある。
- 北海道のTBS系列局である北海道放送は、『モーニングショー(第1期)』をネットしていたために放送されなかったが、裏送り中継は行っていた[15]。
- この本番組の終了後、1971年4月の『モーニングジャンボ』開始まで約2年半の間、平日8時台のワイドショー枠は一旦姿を消すことになる(『ポーラテレビ小説』の再放送と『あなたの映画劇場』で編成)。
- 『TBS50年史』付録のDVDには、「8月15日特集 -ある学徒兵の遺書より- 故郷ヨ聞イテクレ」と題した企画の放送(放送年明記せず)を記録したキネコ映像(モノクロ)が収録。
脚注
[編集]- ^ 当時の東京放送テレビ部門。
- ^
- 『TBS50年史』資料編P217に掲載された歴代テレビ番組の一覧表
- 『TBS50年史』付録DVDでの映像再生メニュー
- タイトルロゴ(『TBS50年史』付録DVD収録の本番組映像より、冒頭部分の紙焼きテロップを参照)
- ^ 参考:『ザ・テレビ欄0 1954〜1974』に掲載された、放送当時の報知新聞東京本社版テレビ欄(1966年10月11日付 - 14日付ほか)
- ^ a b c d e f g 『TBS50年史』P247
- ^ 参考:『ザ・テレビ欄 大阪版 1964〜1973』に掲載された、放送当時の報知新聞大阪本社版テレビ欄(1966年10月10日 - 12日、14日付)
- ^ 「読物 放送界パトロール / 土岐唯男」『電子』第6巻第11号、日本電子機械工業会、1966年11月20日、44 - 45頁、NDLJP:2370784/26。
- ^ トッポ・ジージョとは? - 『トッポ・ジージョ 日本公式サイト』より。
- ^ TOPO GIGIO 日本公式 - 基本データ | Facebook
- ^ a b 『TBS50年史』P239
- ^ 放送批評懇談会サイト内該当記事
- ^ 所属事務所(三輪事務所)ウェブサイト内プロフィール[リンク切れ](リンク先は「おはよう日本」と表記)
- ^ 参考:
- 『TBS50年史』資料編または『TBSアナウンサーの動き』に掲載された歴代TBSアナウンサー活動記録
- TBSアナウンススクールサイト内プロフィール Archived 2009年5月25日, at the Wayback Machine.(リンク先は「おはようニッポン」と表記)
- ^ 自由企画・出版 webサイト内会社情報
- ^ 『TBS50年史』P258より、カメラなどのフロア業務を担当した事が記されている。
- ^ 参考:「魔の金曜日」 JNNに救われた命 - 『テレビ朝日社友会 社友報』より。1966年2月4日に『モーニングショー』で行うはずだったさっぽろ雪まつり中継が本番組で行われたことについて、当時『モーニングショー』プロデューサーだった浅田孝彦が綴っている。
参考資料
[編集]- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 資料編
- 付録DVDソフト『ビジュアル編』(DVD-VIDEO)
- 付録DVDソフト『ハイブリッド検索編』(DVD-ROM。パソコン対応)
- 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書。PDFファイルとして収録)
- ザ・テレビ欄0 1954〜1974(2009年8月31日、TOブックス発行、テレビ欄研究会編・著、ISBN 4904376102) - 1954年から1974年の間に発行された報知新聞東京本社版テレビ欄の一部を掲載(奥付に「協力:株式会社報知新聞社」のクレジットあり)。
- ザ・テレビ欄 大阪版 1964〜1973(2009年11月30日、TOブックス発行、テレビ欄研究会編・著、ISBN 4904376153) - 1964年から1973年の間に発行された報知新聞大阪本社版テレビ欄の一部を掲載(奥付に「協力:株式会社報知新聞社」のクレジットあり)。
TBS 月 - 金曜 午前のワイドショー枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
(枠設置前につきなし)
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おはよう・にっぽん
(1966年1月31日 - 1968年9月13日) |
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TBS 月 - 金曜 8:00 - 9:00 | ||
おはよう・にっぽん
(1966年1月31日 - 1968年9月13日) |