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れぶん型巡視船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
れぶん型巡視船
基本情報
艦種 450トン型PM
就役期間 1951年 - 1980年
前級 あわじ型
次級 ちふり型
要目
常備排水量 495トン
総トン数 387トン
全長 52.4 m
8.10 m
深さ 4.50 m
吃水 2.61 m
主機 ディーゼルエンジン×2基
推進器 スクリュープロペラ×2軸
出力 1,300馬力
速力 14.6ノット
航続距離 3,430海里
乗員 40名 (最大搭載人員)
兵装

※後日装備

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れぶん型巡視船英語: Rebun-class patrol vessel)は、海上保安庁が運用していた巡視船の船級。分類上はPM型、公称船型は450トン型[1][2]

来歴

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海上保安庁は、創設翌年の昭和24年(1949年)度より船艇の新規建造に着手しており、このなかには450トン型巡視船(あわじ型)3隻が含まれていた[3]。しかし同型を含む同年度計画船の多くは、当初は独自の設計を予定して具体的な検討まで行なわれていたにもかかわらず、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)からの指示によってアメリカ沿岸警備隊の保有船艇をベースとするよう変更された結果、建造計画が混乱した上に、海保の実業務でも使いづらいという結果になっていた[4]

このことから、翌昭和25年(1950年)度での建造分は、24年度計画船をもとにした改設計型に移行することになった[4]。これによって建造されたのが本型である[4]

設計

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船体

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上記の経緯より、本型は、あわじ型をもとにした小改正型として設計された[2]。あわじ型では、GHQ/SCAP参謀第2部(G-2)からの要望に従い、水路および航路標識業務にも従事できる汎用型として設計されていたのに対して、本型では警備救難業務を優先するように改正され、設標・測量用のデリックや船倉は廃止された[5]。また大きな性能・艤装などの変更なく兵装を行えるよう、設計上の配慮がなされた[5]

あわじ型では船体重量が計画値を超過したために乾舷が減少し、復原性能の低下につながっていたことから、本型ではその是正も図られた[1][5]。船体構造においては電気溶接工法を大規模に導入したほか、板厚についても規定の許容限度の薄板を採用することで、重量軽減・重心降下に努めた[1][5]。建造は、船底7個、船側(片舷)9個、上甲板7個、上部構造物2個のブロックに分けてのブロック工法が計画されたが、当時、日本において本型のように広範に溶接構造を採用した例はほとんどなく、各造船所とも非常な苦心を払っての工作となった[5]。各社で異なる建造方法が採用され、結果として上甲板および外板に歪の発生したものもあったが、本型および270トン型の建造経験は、造船各社の溶接工作法の進歩に寄与したものと考えられている[5]

また艤装においても、木甲板や室内の木製家具など木製の艤装を原則全廃したが、これは建造初期の段階での朝鮮戦争の勃発を受けた防火対策としての面もあった[1]。同様の観点から、諸室仕切り壁は薄鋼板製、内張りはガラスウールとされた[1]。内部塗料も耐火塗料となり、倉庫にジンケート、その他のところにはニップが使用された[5]

これらの施策により、船体寸法はあわじ型と同じであるにもかかわらず、常備排水量は同型より47トン少なくなり、復原性能の改善につながった[1]。ただし動揺性能および居住性は低下し、特に防火対策の観点で実施された木製家具などの廃止については、乗員からの不評を受けた[5]。一般配置に関しては、上部構造物の縮小に伴って上甲板にあった士官室・蓄電池室を下甲板に移し、スペース確保のため取調室は廃止された。科員室は、衛生と船内規律の点から、寝室と食堂を各々独立させた[5]

機関

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機関部は基本的にあわじ型と同様だが、多数を同時に建造することになったため、主機と発電機(原動機)はそれぞれ3つの型式が使用された[5]。ただしこのうち、「げんかい」などで搭載された三菱横浜MAN G6V37/50型機関においては、主機架構の腐蝕の問題が生じた[6]

電源においては、あわじ型では停泊時運転のための補助発電機が装備されていたが、実際には容量に余裕があったためにこれを廃止して[5]直流225ボルト・出力60キロワットの発電機2基のみの構成とした[1]。また交流電源の強化を図った[5]

装備

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本型ではレーダーの搭載を想定して所要のスペースと電源の配慮がなされており、「おき」は新造巡視船のレーダー装備第一号となった[5]

なお建造当時、極東委員会の意向を受けたGHQ/SCAP民政局の指示によって、海上保安庁の巡視船は排水量1,500トン以下、最大速力15ノット以下、兵装は小火器のみに制限されており、これは本型にも適用されていた。このため本型は非武装で就役したが、その後制限が緩和され、昭和28年度以降兵装の供与を受けたことから、順次に3インチ単装緩射砲20mm単装機銃各1基を搭載した[7]。またこのほかにも、搭載艇用ダビットの位置・型式の変更、後檣の新設などの改装が施された[2]

同型船一覧

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本型はまず6隻が建造されたのち、朝鮮戦争勃発を受けて1950年7月8日に発せられたマッカーサー書簡によって、さらに8隻が追加発注されたが、昭和25年度第2次追加計画での建造分は、さらに発展させた改450トン型(ちふり型)に移行することとなった。その後、昭和53年度補正計画よりしれとこ型(1000トン型)などによって更新され、運用を終了した。

計画年度 # 船名 造船所 竣工 解役
昭和25年度 PM-04 れぶん 日立造船
桜島工場
1951年
2月28日
1979年
10月16日
PM-05 いき 1951年
3月31日
1979年
7月6日
PM-06 おき 三井造船
玉野事業所
1951年
2月19日
1979年
10月15日
PM-07 げんかい 1951年
3月17日
1979年
1月27日
PM-08 はちじよう 三菱重工
神戸造船所
1951年
3月6日
1979年
9月26日
PM-09 あまくさ 1951年
3月8日
1980年
1月28日
昭和25年度
第1次追加
PM-10 おくしり 日立造船
向島工場
1951年
6月27日
1980年
2月8日
PM-11 くさかき 1951年
7月31日
1979年
12月27日
PM-12 りしり 藤永田造船所 1951年
6月30日
1979年
8月10日
PM-13 のと 1951年
8月25日
1979年
10月29日
PM-14 へくら 播磨造船 1951年
6月30日
1979年
8月24日
PM-15 みくら 1951年
7月19日
1979年
10月29日
PM-16 こしき 三菱重工
広島造船所
1951年
8月31日
1979年
12月24日
PM-17 ひらど 1951年
9月4日
1980年
12月25日

登場作品

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フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ
「げんかい」が登場。ガイラによって沈められた、漁船「第三海神丸」の調査を行う。

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 徳永 & 大塚 1995, pp. 53–54.
  2. ^ a b c 海人社 2003, p. 32.
  3. ^ 徳永 & 大塚 1995, pp. 19–33.
  4. ^ a b c 真山 2003, pp. 197–198.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 森 & 真山 1978, pp. 28–39.
  6. ^ 佐藤 1990, pp. 575–576.
  7. ^ 中名生 2015.

参考文献

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  • 海人社 編「海上保安庁全船艇史」『世界の艦船』第613号、海人社、2003年7月。 NAID 40005855317 
  • 佐藤邦男「大量建造で得た貴重な経験」『海上保安庁船艇航空機整備の歩み』海上保安協会、1990年、569-580頁。 NCID BA33890789 
  • 徳永陽一郎; 大塚至毅『海上保安庁 船艇と航空』成山堂書店〈交通ブックス〉、1995年。ISBN 4-425-77041-2 
  • 中名生正己「巡視船 武装の歩み(下)」『世界の艦船』第825号、海人社、168-173頁、2015年11月。 NAID 40020597434 
  • 真山良文「海上保安庁船艇整備の歩み」『世界の艦船』第613号、海人社、193-205頁、2003年7月。 NAID 40005855317 
  • 森仁; 真山良文 編『北の巡視船 -釧路の海上保安船艇-』釧路綜合印刷、1978年。国立国会図書館サーチR100000001-I01211001000852138