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アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アウグステ・カロリーネ
Auguste Karoline
ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家

出生 (1764-12-03) 1764年12月3日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク
死去 (1788-09-27) 1788年9月27日(23歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、ローデ
配偶者 フリードリヒ・フォン・ヴュルテンベルク
子女 ヴィルヘルム1世
カタリーナ
ゾフィア・ドロテア
パウル
父親 カール・ヴィルヘルム・フェルディナント
母親 オーガスタ
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アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルAuguste Karoline von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1764年12月3日 - 1788年9月27日)は、ヴュルテンベルク公子フリードリヒ、後のヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の最初の妃。

生涯

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ブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントイギリス王女オーガスタの長女(第1子)として、ブラウンシュヴァイクで生まれた。全名はアウグステ・カロリーネ・フリーデリケ・ルイーゼ(Auguste Karoline Friederike Luise)。イギリス王妃となったキャロライン・オブ・ブランズウィックは妹である。

1780年、ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンの嫡子フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚、のちのヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世を始めとして4子をもうけた。

結婚後すぐにフリードリヒは妻に対して暴力をふるうようになり、1786年12月に夫妻でロシア訪問の際、アウグステは女帝エカチェリーナ2世の私室へ避難したほどだった。エカチェリーナは、フリードリヒがロシア宮廷から去るよう求める手紙を書くよう指示した。これに、皇太子妃マリア・フョードロヴナ(フリードリヒの妹)が兄を援護し抗議した。エカチェリーナは『ヴュルテンベルク公子の不名誉を隠すのは私ではない』という素っ気ない返事を書いた。

アウグステの父は娘にまったく同情せず、娘の離婚の申し立てを拒絶した。この返答の為、エカチェリーナは帝国領であるローデ(現在のタリン近郊)にアウグステの住まいを提供してやった。アウグステはローデの城で、23歳の若さで死んだ。

子女

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関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルに関するカテゴリがあります。