ジェローム・ボナパルト
イェローメ Jérôme | |
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ヴェストファーレン王 | |
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在位 | 1807年7月9日 - 1813年10月19日 |
全名 | ジェローム=ナポレオン・ボナパルト |
出生 |
1784年11月15日 フランス王国、コルシカ島、アジャクシオ |
死去 |
1860年6月24日(75歳没) フランス帝国、エソンヌ、マシー |
埋葬 |
フランス、パリ、オテル・デ・ザンヴァリッド |
配偶者 | エリザベス・パターソン |
カタリーナ・フォン・ヴュルテンベルク | |
ジュスティーヌ・ペルソリ | |
子女 |
ジェローム・ナポレオン1世 ジェローム・ナポレオン・シャルル マチルド ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール |
家名 | ボナパルト家 |
父親 | シャルル・マリ・ボナパルト |
母親 | マリア・レティツィア・ボナパルト |
サイン |
ジェローム・ボナパルト(フランス語: Jérôme Bonaparte, 1784年11月15日 - 1860年6月24日)は、ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟(末弟)。フランスの傀儡国家ヴェストファーレン王国の国王(在位:1807年 - 1813年)。初代モンフォール公。
生涯
[編集]コルシカ島で生まれ、他の家族と違い金銭的に恵まれた環境で育つ。ナポレオンにかわいがられ、薦められて海軍に入隊し、マルティニーク島の海戦に遭遇する。イギリスに追われ、独立後間もないアメリカ合衆国に逃亡してそこで歓迎される。同地で富豪の令嬢エリザベス・パターソンと恋におち、周囲の反対にもかかわらず1803年に結婚し、2人の子供をもうけた。1804年にナポレオンは皇帝に即位し、ジェローム夫妻は謁見のためにフランスに赴くが、エリザベスは上陸を許されなかった。1人でパリに着いたジェロームは離婚を強要され、やむなく同意した。エリザベスは失意のまま帰国した。
その後、ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の娘カタリーナと政略結婚し、1808年6月6日、ティルジットの和約によってナポレオンが作ったヴェストファーレン王国の国王に即位した。その治世は、近代的な制度を取り入れたものの、フランス軍の兵站基地として国民に多大な負担をかけた。
1812年のロシア遠征が始まると自国の軍勢7万を率いて参戦したが、途中でナポレオンと対立、勝手に戦線離脱をしてしまう。1813年のライプツィヒの戦いで敗北し、王国は消滅したが、逃亡して養父に匿われた。1815年の百日天下ではワーテルローの戦いに参戦している。
ナポレオンの死後は安定した生活を送り、フランス第二帝政が成立すると政治に介入した。
家族
[編集]- 最初の妻、エリザベス・パターソン
アメリカ・ボナパルト家の男系男子は、1945年まで続いた。
ナポレオン3世の皇太子ナポレオン・ウジェーヌ(=ナポレオン4世)の没後、ボナパルト家の家督はカタリーナとの子孫に引き継がれた。
- ジェローム・ボナパルト以降の系図
エリザベス・パターソン | ジェローム ヴェストファーレン王 初代モンフォール公 | ヴュルテンベルク王女カタリーナ ヴェストファーレン王妃 モンフォール公妃 | |||||||||||||||||||||||||||
スーザン・メイ・ウィリアムズ | ジェローム・ナポレオン1世 | ジェローム・ナポレオン・シャルル モンフォール公子 | ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール 第2代モンフォール公 | ||||||||||||||||||||||||||
ジェローム・ナポレオン2世 | チャールズ・ジョゼフ | ナポレオン・ヴィクトル (⇒帝位請求者ナポレオン5世) 第3代モンフォール公 | |||||||||||||||||||||||||||
ジェローム・ナポレオン・シャルル | ルイ・ナポレオン (⇒帝位請求者ナポレオン6世) 第4代モンフォール公 | ||||||||||||||||||||||||||||
人物
[編集]ナポレオンは兄弟たちをフリーメイソンの高位職につけており、彼もウェストファーレンのグラントリアンのグランドマスターに任じられた[1]。
関連作品
[編集]- 『祖国の叫び』(映画) 製作:アメリカ
脚注
[編集]- ^ “Napoleon I” (英語). Grand Lodge of British Columbia and Yukon. 2015年9月4日閲覧。