アウトゴルペ
この記事はスペイン語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年12月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
アウトゴルペ/フヒモラソ Autogolpe/Fujimorazo | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ペルー内戦中 | |||||||||
| |||||||||
衝突した勢力 | |||||||||
親フジモリ派 |
共和国議会 司法機関 野党 支援: 米州機構 国際連合 アメリカ合衆国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アルベルト・フジモリ Víctor Malca Villanueva Vladimiro Montesinos Nicolás de Bari Hermoza Ríos |
Felipe Osterling Roberto Ramírez del Villar Beaumont Máximo San Román アラン・ガルシア Isaac Humala | ||||||||
軍事的支援 | |||||||||
Thousands of soldiers Tanks Armored personnel carriers | None | ||||||||
On November 26, 2007, ten former government officials were sentenced by the Supreme Court of Peru for their role in the self-coup. |
アウトゴルペ(スペイン語: Autogolpe)は、1992年4月5日にペルーで発生したクーデターである。
大統領のアルベルト・フジモリが軍・警察の支持を受けて議会・司法機関を解散し、憲法を停止した[1]。フヒモラソ(Fujimorazo)とも呼ばれる。
背景
[編集]1968年に発足したフアン・ベラスコ・アルバラード率いる軍事政権下において、ペルーの債務は過剰な借入と1970年代のオイルショックのために大幅に増加した[2]。そして1985年に大統領に就任したアラン・ガルシアの巨額債務の返済凍結などの経済政策は、ペルーを国際市場からさらに遠ざけ、ペルーへの外国投資が大幅に減少した[3]。ガルシア政権下で年8,000%のハイパーインフレや、左翼ゲリラのセンデロ・ルミノソとの内戦が拡大し、国の不安定を招いた[4]。
ヴェルデ計画
[編集]ペルー内戦中の1989年6月、ペルー国軍によって貧しい先住民の虐殺、国内のメディア統制・検閲、新自由主義経済の確立を目指す「ヴェルデ計画」が極秘に策定された[5][6]。当初、クーデターが計画に含まれていたが、米国大使であるアンソニー・C.E.クイントンによって反対された。
自己クーデター
[編集]1992年4月5日夜、フジモリはテレビに出演し、共和国議会を「一時的に解散」し、司法府を「再編成」すると発表した。
政令25418号を公布し、緊急事態宣言と夜間外出禁止令を発令するとともに、憲法の規定を停止し、共和国議会を解散、行政府にすべての立法権を与えた。さらにテロリスト征討に対する強大な権限を大統領に付与した[7]。
自己クーデターに反対した首相のアルフォンソ・ペレス・デ・ロス・ヒーローズ・アルバと農業相のエグスタボ・ゴンサレス・プリエトは翌6日に辞任。ドミニカ共和国へ外遊していた第一副大統領のマキシモ・サン・ロマンは事前にクーデターを知らされておらず、フジモリの動きに反対した。しかし残りの閣僚はフジモリを支持した。
共和国議会はフジモリの自己クーデターに対して4月21日、憲法の規定に基づいて大統領を解任し、マキシモ・サン・ロマンが大統領に昇格した。元大統領のフェルナンド・ベラウンデ・テリーと野党・人民と行動党の大半がサン・ロマンの大統領昇格を支持し、FREDEMOの元大統領候補だったマリオ・バルガス・リョサはフジモリ政権を打倒するための市民に対して反乱を呼びかけた。しかし、軍も大多数の国民もサン・ロマンを支持しなかった。
フジモリは、制憲議会として「民主憲法会議」の設置と選挙を実施することを決定した。
脚注
[編集]- ^ “アウトゴルペとは”. コトバンク. 2018年12月14日閲覧。
- ^ Brands, Hal (15 September 2010). “The United States and the Peruvian Challenge, 1968–1975”. Diplomacy & Statecraft (Taylor & Francis) 21 (3): 471–490. doi:10.1080/09592296.2010.508418.
- ^ “Welcome, Mr. Peruvian President: Why Alan García is no hero to his people” (英語). Council on Hemispheric Affairs (2 June 2010). 18 April 2019時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月18日閲覧。
- ^ Burt, Jo-Marie (September–October 1998). “Unsettled accounts: militarization and memory in postwar Peru”. NACLA Report on the Americas (Taylor & Francis) 32 (2): 35–41. doi:10.1080/10714839.1998.11725657. "the military's growing frustration over the limitations placed upon its counterinsurgency operations by democratic institutions, coupled with the growing inability of civilian politicians to deal with the spiraling economic crisis and the expansion of the Shining Path, prompted a group of military officers to devise a coup plan in the late 1980s. The plan called for the dissolution of Peru's civilian government, military control over the state, and total elimination of armed opposition groups. The plan, developed in a series of documents known as the "Plan Verde," outlined a strategy for carrying out a military coup in which the armed forces would govern for 15 to 20 years and radically restructure state-society relations along neoliberal lines."
- ^ Gaussens, Pierre (2020). “The forced serilization of indigenous population in Mexico in the 1990s”. Canadian Journal of Bioethics 3 (3): 180+. doi:10.7202/1073797ar. "a government plan, developed by the Peruvian army between 1989 and 1990s to deal with the Shining Path insurrection, later known as the 'Green Plan', whose (unpublished) text expresses in explicit terms a genocidal intention"
- ^ “El "Plan Verde" Historia de una traición”. Oiga 647. (12 July 1993) .
- ^ “Decree Law 25418”. 2008年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月2日閲覧。