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アシッド・テスト (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アシッド・テスト (Assid Test[1][2][3]) は、第二次世界大戦時のアメリカ陸軍航空軍第20空軍第20爆撃集団第58爆撃団第462爆撃群英語版に所属した2機のB-29爆撃機の機名。いずれも日本本土への空襲の際に、日本側の反撃によって撃墜された。

長崎県で撃墜されたアシッド・テスト

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1944年11月21日午前10時ころ、中国方面から長崎県へ飛来したB-29爆撃機の編隊に対し、日本側の多数の戦闘機が迎撃を行なった[4]。爆撃機編隊は、第21海軍航空廠などがあった大村市を爆撃した後、中国方面へ帰還しようとしたが、60機を超える日本側の戦闘機が攻撃を加えた[5][6]

アメリカの報告書によれば、当日、大村の上空は雲で覆われていたため、レーダーによる爆撃が行われた。大村へ到着直前、第1編隊の先導機のレーダーが故障したため後方の2番機へ先導の役割を委譲した。このとき、2番機のレーダーオペレーターが大村(Omura)と大牟田(Omuta)を間違えて大牟田へ向かった。後続の数機がこれに従って大牟田を爆撃した。

第1編隊に続いていた第2編隊の先導機のレーダーも故障した。そのため後方の爆撃機へ先導の役割を委譲した。このとき、一部の爆撃機は第1編隊の後に続いた。この中にB-29「アシッド・テスト」がいた。この機体を日本の戦闘機2機[7]が迎撃した[8]

戦闘の中で、やがて編隊の最後尾にいた1機が高度を下げ、当時の小長井村井崎の沖500mほどの海に墜落した[4]。墜落したのは、第462爆撃群所属のB-29「アシッド・テスト」機体番号42-24786[3] であった[5]。これは、坂本幹彦海軍中尉[9]が操縦する零戦(一説には雷電)の体当たり攻撃によるものであり、坂本機は飛散して当時の深海村の山中に落下した[4][10]。坂本の遺体は直後には見つからず、翌1945年1月8日に発見された[4]

体当たりの事実は、11月22日の新聞に大本営発表として掲載された[11][12]

アシッド・テストが墜落した場所は干潟が広がる水深の浅い海であり、垂直尾翼は海面上に突き出る形になっていた[4]。墜落時にアシッド・テストに搭乗していた乗員は、機長ジョセフ・キルブルー大尉 (Capt. Joseph Killebrew) [13]以下11名であった[4][5]。このうち8名(一説には9名)分については墜落した機内から遺体が回収されて、小川原浦集落に仮埋葬された[4]。また、周辺に漂着した米兵と思しき遺体があり、全員の遺体が回収された可能性が高いものと考えられている[4]。これら埋葬された遺骨、遺灰は、その後、米軍によって本国へ移された[4][注釈 1][注釈 2]

1992年には坂本中尉(戦死後2階級特進して少佐)を慰霊する「坂本少佐慰霊碑」[17]が、1993年にはB29搭乗員のための「鎮魂碑」[18]が、地元の有志によりそれぞれの機の墜落地点近くに建立されている[5][6][19]

この機体に搭載されていたレーダー装置は1944年12月初旬陸軍多摩研究所霞分室に運ばれ、陸海軍合同で分解調査された[20]

京都府で撃墜されたアシッド・テストII

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「アシッド・テスト」という愛称は、その後、第462爆撃群所属の別のB-29に付けられ、機体番号42-65336[3]が「アシッド・テストII (Assid Test II)」と称された[1][2][21]

1945年6月5日午前8時ころ、神戸への空襲を終え、マリアナ諸島方面へ帰還しようとしていたアシッド・テストIIは、京都府上空で高射砲の攻撃により被弾、炎上、さらに空中分解して、当時の小倉村伊勢田付近に墜落した[21]。墜落時にアシッド・テストIIに搭乗していた乗員は、機長ユージン・F・トーヴェンド少佐 (Maj. Eugene F. Torvend) [22]以下12名のうちトーヴェンド少佐を含む6名が墜落死し、他の6名はパラシュートで脱出して捕虜となったものの、そのうち5名はその後の抑留中に傷病死し、1名は7月20日に信太山演習場で処刑された[21][23]

脚注

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注釈

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  1. ^ 機体周辺には次のようなものが浮遊していた。ガールフレンドらしい人の写真、ゲートパス、財布、内容から見るとラブレターと思われる手紙、極めて精密な大村の航空写真など[14]。その他に、軍靴、食料品、パラシュート、釣り具などがあった[15]
  2. ^ 機体は、分解され運搬船で海路を第21海軍航空廠に運ばれ組み立て展示された[14]。機体の一部は陸揚げされた。250Kg爆弾9個、機銃弾かます一俵、プロペラ一基[16]などであった。

出典

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  1. ^ a b http://www.aviationatwar.com/photo-details.php?id=455
  2. ^ a b https://www.worthpoint.com/worthopedia/29-42-65336-assid-test-ii-462nd-bg-81625286
  3. ^ a b c B-29 Superfortress: A Comprehensive Registry of the Planes and Their Missions, Robert A. Mann, Mcfarland & Co Inc Pub, 2009/1/28, ISBN 978-0786444588, page 89
  4. ^ a b c d e f g h i 犬尾博治 (2023年2月1日). “坂本中尉機とボーイングB29”. 諫早市. 2024年11月18日閲覧。 - 初出は、諫早ロータリークラブ卓話(1985年7月26日)
  5. ^ a b c d David R. Krigbaum (2015年11月24日). “World War II Japanese Fighter and American Bomber Crew Commemorated in Isahaya”. Stars and Stripes. 2017年10月31日閲覧。
  6. ^ a b 第22航空隊 ~航空隊の横顔~ 坂本少佐慰霊碑、B-29搭乗員鎮魂碑清掃 平成26年1月”. 海上自衛隊第22航空群. 2017年10月31日閲覧。
  7. ^ アメリカは「雷電」(Jack)と記録しているが日本は「零戦」としている。
  8. ^ Mission 17, Omura, 21 November 1944 国立国会図書館デジタルコレクション
  9. ^ 坂本中尉は、1922年(大正11年)11月23日秋分の日生まれ。佐賀県東松浦郡相知村出身。父親は、相知町にある熊野神社宮司であった。
  10. ^ 神立 尚紀 『「B-29」に体当たりをした者も…撃墜確実12機、撃破31機の「大戦果」を挙げた三五二空の隊員たち』 マネー現代(講談社) 2022-02-26 B-29に体当たりし、撃墜した…
  11. ^ 犬尾博治 1986, p. 102.
  12. ^ 神立 尚紀 『「B-29」に体当たりをした者も…撃墜確実12機、撃破31機の「大戦果」を挙げた三五二空の隊員たち』マネー現代(講談社)2022-02-26 「零戦」「雷電」の名と共に大戦果が発表された
  13. ^ Capt Joseph P Killebrew - Find a Grave(英語)
  14. ^ a b 犬尾博治 1986, p. 103.
  15. ^ 田﨑保時 2003, p. 86.
  16. ^ 田﨑保時 2003, p. 88.
  17. ^ Google Maps – 坂本少佐慰霊碑 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年11月18日閲覧
  18. ^ Google Maps – B29搭乗員鎮魂碑 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年11月18日閲覧
  19. ^ 中原俊治 2014, pp. 05–10.
  20. ^ 戦時中の米軍レーダーの調査 東京大学名誉教授 霜田光一
  21. ^ a b c 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士 中部軍管区”. POW研究会. 2017年10月31日閲覧。
  22. ^ Maj Eugene F Torvend - Find a Grave(英語)
  23. ^ JUNE 1945 MISSIONS” (PDF). Rick Feldmann/9th Bomb Group (VH). 2017年10月31日閲覧。

参考文献

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  • 犬尾博治「坂本中尉機とボーイングB29」『諫早文化』第16号、諫早文化協会、1986年、102-107頁。 
  • 田﨑保時「坂本中尉のB29へ体当たりの回想記」『諫早史談』第35号、諫早史談会、2003年、86-91頁。 
  • 中原俊治「B-29搭乗員鎮魂碑とゼロ戦坂本中尉の慰霊碑」『諫早史談』第46号、諫早史談会、2014年、05-10頁。 

外部リンク

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