アッバース3世
アッバース3世 شاه عباس سوم | |
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サファヴィー朝 シャー | |
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在位 | 1732年 - 1736年3月 |
戴冠式 | 1732年9月7日 |
出生 |
1732年 |
死去 |
1739/40年 サブゼバール |
王朝 | サファヴィー朝 |
父親 | タフマースブ2世 |
アッバース3世(ペルシア語: شاه اسماعیل; アゼルバイジャン語: III Şah Abbas, 1732年 - 1739年/ 1740年、在位:1732年 - 1736年3月21日)[1] は、サファヴィー朝の第11代君主。
生涯
[編集]父は第10代君主のタフマースブ2世。父がナーディル・クリー・ベグに強制的に退位させられて追われた後の1732年9月7日に、幼児のアッバースがペルシャの形式上の統治者としてシャーの座に就いてアッバース3世となった[2]。真の国の支配者だったナーディル・クリー・ベグは国王の代理である摂政に就任した。1736年3月にアッバース3世は退位させられ、ナーディル・クリー・ベグが自ら即位し、ナーディル・シャーと名乗った。これによって、サファヴィー朝は正式に終焉を迎えた。ホラーサーンのサブゼヴァールの牢獄にいる父のタフマースブ2世の許に送られた[3]。
1738年、ナーディル・シャーはアフガニスタン・インド遠征に出発し、長男のレザー・クリー・ミールザーを遠征中の国内の留守居役として残した。ナーディル・シャーが遠征中に死亡したとの噂が流れてそれを耳にしたレザーは、後継のシャーに就く準備を始めた。ほとんどの権威のある書物等の記述によれば[4]、監禁中のタフマースブ2世とアッバース3世の父子の世話を任されているガージャール族のムハンマド・フサイン・ハーンがレザーに、ナーディル・シャーの死の知らせを聞いたサブゼヴァールの町の住民たちがタフマースブ2世を解放してシャーに復位させる暴動を起こそうとしていると警告した。レザーは、この動きに先んじてタフマースブ2世とアッバース3世を処刑するようムハンマド・フサイン・ハーンに命じた。ムハンマド・フサイン・ハーンはタフマースブ2世を絞め殺し、アッバース3世の首を刎ね、兄弟のイスマーイールも殺した。マイケル・アクスワージー("Michael Axworthy)によれば、これらの出来事がいつ頃行なわれたかは、推測ではあるが、1739年の5月か6月だとしている[5]。他の情報源[6]では、1740年としている。
脚注
[編集]- ^ Azərbaycan Tarixi. (9-cu sinif üçün dərslik). Bakı. "Aspoliqraf". 2005. səh. 63
- ^ Axworthy p.123
- ^ Axworthy p.165
- ^ Axworthy p.220
- ^ Axworthy p.221
- ^ Encyclopaedia Iranica、"ABBĀS III"、Lockhart [1]
参考文献
[編集]- Michael Axworthy Sword of Persia: Nader Shah: From Tribal Warlord to Conquering Tyrant (IB Tauris, 2006)
- L. Lockhart, Nadir Shah, London, 1938
- R.M. Savory, Encyclopaedia Iranica