アディル・ギレイ
アディル・ギレイ عادل گراى | |
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クリム・ハン国君主 | |
アディル・ギレイ(1672年) | |
在位 | 1666年 - 1671年5月 |
別号 | チュル・ボルド(初名) |
出生 |
1617年 オスマン帝国、カリン・アバド |
死去 |
1672年 オスマン帝国、カリン・アバド |
埋葬 | オスマン帝国、カリン・アバド |
子女 | フェトフ |
家名 | チョバン・ギレイ家 |
王朝 | ギレイ朝 |
父親 | デヴレト・チョバン・ギレイ |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
アディル・ギレイ(クリミア・タタール語: عادل گراى, ラテン文字転写: Adil Geray,キリル文字転写: Адил герай 1617年 – 1672年[1])は、クリム・ハン国の第31代君主(在位:1666年 - 1671年5月)。
生涯
[編集]初名はチュル・ボルド(Chul Bold)。父のムスタファはフェトフ1世の庶子[1]であったが、父親に承認されず、アクメスジト付近で羊飼いとして暮らしていた[1]。1623年、ムスタファはメフメト3世によって、その補佐役であるヌレッディンの称号[2]とデヴレト・ギレイの名を与えられて、王族として認められた。その子のチュル・ボルドも兄のクル・ボルド(フェトフと改名)と共に「アディル」の名を与えられた[1]。1625年に父がオスマン帝国との戦いで戦死した後、ロドス島に居住していた[3]が、1666年春に皇帝メフメト4世によってメフメト4世ギレイに代わるクリム・ハン国の新たな君主に擁立された[3][4]。
即位したアディルはギレイ家の他の人間から、傍流の家系であるチョバン・ギレイ家が王族扱いされていないこと[4]に激怒し、兄フェトフの子であるデヴレトをヌレッディン[4]に任命した他、子のフェトフをカルガとした。1667年、ウィーンにアフメト・アガを使節として送り、レオポルト1世に対して自身の君主位を表明した。アディルはオーストリアに大使をクリミアに留めるように要請したが、退けられた。同年7月にはワルシャワのヤン2世の元にデデシュ・アガを使節として送り、対モスクワの同盟を提案した[4]。アディルは貴族に重税を課したことで貴族との対立が先鋭化し[1]、有力氏族であるシリン[5]の反乱を招いた[4]。アディルはオスマン帝国軍の支援を得てこれを鎮圧した[1]が、クリミア情勢が緊迫していたために、以降のシリンの抑圧をオスマン帝国から禁じられた。
ポーランド・コサック・タタール戦争において、ヘーチマンのペトロー・ドロシェーンコを支持しており[4]、1669年のポーランド・リトアニア国王自由選挙ではムスリムであるにもかかわらず、候補の一人として擁立された。1670年にミハイロ・ハネンコがドロシェーンコに取って代わると、オスマン帝国の許可を得ずにハネンコと同盟したため、大トルコ戦争において対共和国戦争が始まる際の1671年5月[6]、皇帝メフメト4世によって廃位され、再従弟にあたるセリム1世(バハディル1世の子)が即位した[1][3][6]。
アディルはカリン・アバドに送られ、翌年に同地で死去した[1]。遺体はカリン・アバドにあるモスクの中庭に葬られた。
出典
[編集]参考資料
[編集]- İlyas Kemaloğlu; Hayrunnisa Alan (2016-11-01). Avrasya'nın Sekiz Asrı Çengizoğulları. Ötüken Neşriyat A.Ş. ISBN 978-6051555232
- Dariusz Kolodziejczyk (2011-06-22). The Crimean Khanate and Poland-Lithuania: International Diplomacy on the European Periphery (15th-18th Century). A Study of Peace Treaties Followed by Annotated Documents. BRILL. ISBN 978-9004191907
- 志田恭子「帝政ロシアにおけるノヴォロシア・ベッサラビアの成立 : 併合から総督府の設置まで」『スラヴ研究』第49号、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、2002年3月、245-268頁。
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