コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

オスマン帝国の君主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オスマン帝国の皇帝
Osmanlı padişahları
過去の君主
オスマン家の紋章
最後の皇帝メフメト6世
初代 オスマン1世
最終代 メフメト6世
称号 皇帝陛下
宮殿 ドルマバフチェ宮殿
任命権者 帝位請求者
始まり 1299年
終わり 1923年10月29日
現王位請求者 ハルーン・オスマン

オスマン帝国の皇帝(オスマンていこくのこうてい、Osmanlı padişahları)は、1299年から1923年10月29日までオスマン帝国で用いられた称号。

36代624年間にわたって現在のトルコ共和国の地に君臨し、現在のトルコ人(オスマン人)の元となった。

概要

[編集]

歴代君主の呼称については、通例的にスルタン(イスラム世界における世俗の最高権力者の称号)が用いられる。これは、オスマン帝国の君主たちがイスラム的な権威をまとった君主号としてこれを使用した。「スルタン」の呼称以外に公的文書に一義的に君主を示す場合にはパーディシャー(大王あるいは皇帝の意、「帝王」とも訳される)を使い、スルタンの称号だけならば他の王族や貴顕にも使用されている(ただし碑文や銘文ではオスマン帝国の君主に「パーディシャー」はあまり使用されなかった)[1]。またイスラム世界の指導者的称号である「カリフ」もムラト2世(第6代)の頃から自称的だが碑文や銘文に使用されはじめ、16世紀以後アラブ地域の支配を固めるにつれ[# 1]、元来はクライシュ族(ムハンマドの出自)のみがつけるカリフ位にトルコ人[# 2]のオスマン家はつけないしきたりだったが、オスマン帝国の大宰相も務めた文人リュトフィー・パシャやイスラム長老のエビュッスウードなどの擁護もあり、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねる「スルタン=カリフ制」が行われるようになった[2]

「スルタン」の称号を使うようになったのは少なくともオルハン(第2代)の時代からで、彼が建築させたモスクに「スルタン」の称号が刻まれていた[3]。次のムラト1世(第3代)の時代にはこれ以外に「ハン」(トルコ系遊牧民族の君主号)が使われてたことが彼の建てたモスクの碑文にある[4]

これ以外には、メフメト2世(第7代)の頃から使われ始めた「ハン」に由来する「ハーカーン」という呼称[# 3]、用例としては少ないがアレクサンドロス大王の後継者的な意味合いで「ズルカルナイン(双角王)」、コンスタンティノポリス征服後の「カエセリ・ルーム(ローマのカエサル)」[# 4]、後の時代にはセリム1世(第9代)がマムルーク朝を倒してアラビア地方を征服した際の「両聖都(マッカマディーナ)の守護者」なども存在する[5]

歴代君主

[編集]
肖像 在位 続柄
1
オスマン1世
1258年 - 1326年
1299年 - 1326年
2
オルハン
1281年? - 1362年?
1326年 - 1362年? 先代の子
3
ムラト1世
1326年? - 1389年
1362年? - 1389年 先代の次男
4
バヤズィト1世
1360年 - 1403年
1389年 - 1402年 先代の子
5
メフメト1世
1389年? - 1421年
1413年 - 1421年 先代の子
6
ムラト2世
1404年 - 1451年
1421年 - 1444年 先代の子
7
メフメト2世
1432年 - 1481年
1444年 - 1446年 先代の子
-
ムラト2世(復位)
1446年 - 1451年
-
メフメト2世(復位)
1451年 - 1481年
8
バヤズィト2世
1447年 - 1512年
1481年 - 1512年 先代の長男
9
セリム1世
1465年 - 1520年
1512年 - 1520年 先代の子
10
スレイマン1世
1494年 - 1566年
1520年 - 1566年 先代の長男
11
セリム2世
1524年 - 1574年
1566年 - 1574年 先代の子
12
ムラト3世
1546年 - 1595年
1574年 - 1595年 先代の子
13
メフメト3世
1566年 - 1603年
1595年 - 1603年 先代の子
14
アフメト1世
1590年 - 1617年
1603年 - 1617年 先代の子
15
ムスタファ1世
1592年 - 1639年
1617年 - 1618年 先代の弟
13代メフメト3世の子
16
オスマン2世
1604年 - 1622年
1618年 - 1622年 先代の甥
14代アフメト1世の子
-
ムスタファ1世(復位)
1622年 - 1623年
17
ムラト4世
1612年 - 1640年
1623年 - 1640年 先代の甥
14代アフメト1世の子
18
イブラヒム
1615年 - 1648年
1640年 - 1648年 先代の弟
14代アフメト1世の子
19
メフメト4世
1642年 - 1693年
1648年 - 1687年 先代の子
20
スレイマン2世
1642年 - 1691年
1687年 - 1691年 先代の弟
18代イブラヒムの子
21
アフメト2世
1643年 - 1695年
1691年 - 1695年 先代の弟
18代イブラヒムの子
22
ムスタファ2世
1664年 - 1703年
1695年 - 1703年 先代の甥
19代メフメト4世の子
23
アフメト3世
1673年 - 1736年
1703年 - 1730年 先代の弟
19代メフメト4世の子
24
マフムト1世
1696年 - 1754年
1730年 - 1754年 先代の甥
22代ムスタファ2世の子
25
オスマン3世
1699年 - 1757年
1754年 - 1757年 先代の弟
22代ムスタファ2世の子
26
ムスタファ3世
1717年 - 1774年
1757年 - 1774年 先代の従弟
23代アフメト3世の子
27
アブデュルハミト1世
1725年 - 1789年
1774年 - 1789年 先代の弟
23代アフメト3世の子
28
セリム3世
1761年 - 1808年
1789年 - 1807年 先代の甥
26代ムスタファ3世の子
29
ムスタファ4世
1779年 - 1808年
1807年 - 1808年 先代の従弟
27代アブデュルハミト1世の子
30
マフムト2世
1785年 - 1839年
1808年 - 1839年 先代の弟
27代アブデュルハミト1世の子
31
アブデュルメジト1世
1823年 - 1861年
1839年 - 1861年 先代の子
32
アブデュルアズィズ
1830年 - 1876年
1861年 - 1876年 先代の弟
30代マフムト2世の子
33
ムラト5世
1840年 - 1906年
1876年 先代の甥
31代アブデュルメジト1世の子
34
アブデュルハミト2世
1842年 - 1918年
1876年 - 1909年 先代の弟
31代アブデュルメジト1世の子
35
メフメト5世
1844年 - 1918年
1909年 - 1918年 先代の弟
31代アブデュルメジト1世の子
36
メフメト6世
1861年 - 1926年
1918年 - 1922年 先代の弟
31代アブデュルメジト1世の子
系図

帝位請求者

[編集]
  • (37) アブデュルメジト2世、1922年 - 1944年
    先代(最後の皇帝)メフメト6世の従弟
    32代アブデュルアズィズ1世の子
    「スルタン」ではないが「カリフ」の称号は継承(1922-1924年)。1924年にカリフ制そのものが廃止英語版され退位[6]
  • (38) アフメト4世、1944年 - 1954年
    33代ムラト5世の孫
  • (39) オスマン4世、1954年 - 1973年
    先代の弟
    33代ムラト5世の孫
  • (40) アブデュルアズィズ2世、1973年 - 1977年
    32代アブデュルアズィズの孫
    (37) アブデュルメジト2世の甥
  • (41) アリー1世、1977年 - 1983年
    (38) アフメト4世の子
  • (42) オルハン2世、1983年 - 1994年
    34代アブデュルハミト2世の孫
  • (43) エルトゥールル2世、1994年 - 2009年
    先代の従兄
    34代アブデュルハミト2世の孫
  • (44) バヤズィト3世、2009年 - 2017年
    31代アブデュルメジト1世の曾孫
    36代(最後の皇帝)メフメト6世の兄メフメト・ブルハネッティン・エフェンディの孫
  • (45) アリー2世、2017年 - 2021年
    34代アブデュルハミト2世の曾孫
  • (46)ハルーン・オスマン、2021年 - 現在
    先代の弟
    34代アブデュルハミト2世の曾孫

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 18世紀後半のオスマン帝国では「この時のセリム1世のマムルーク朝征服時に、アッバース朝カリフの末裔をイスタンブルに連れ帰った際、セリムにカリフの位が禅譲された。」とされた。(小笠原(2018)p.119
  2. ^ オスマン家自身も出自をトルコ系のオグズ族カユ氏族の系譜を名乗っていた。
  3. ^ トプカプ宮殿の「帝王の門」にメフメト2世を示す言葉に「二つの陸のハーカーン、二つの海のスルタン」という銘文がある他、西暦1470年に発行された大アクチェ貨という銀貨にもこの文字が彫られている。(小笠原(2018)p.93
  4. ^ ただし、この「カエサル(カエセリ)」は古代イランの王を指す「キスラー」の対で用いられる言葉で、ローマ帝国の後継者というより「東西の王(キスラーとカエサル)を兼ねる者」とオスマン帝国の君主を称えているという方が近い。(小笠原(2018)p.95

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』中公新書、2018年。ISBN 978-4-12-102518-0 
  • 岩本佳子 「「スルタン」から「パーディシャー」へ:オスマン朝公文書における君主呼称の変遷をめぐる一考察」『イスラム世界』88、2017年、29-56頁。

関連項目

[編集]