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オルハン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オルハン
اورخان غازی
Orhan
オスマン皇帝
オルハン
在位 1324年- 1362年

出生 1281年
死去 1362年
埋葬 ブルサ
配偶者 ニールーフェル・ハトゥン[1][注 1]
  テオドラ
子女 スレイマン
ムラト1世
ハリル
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 オスマン1世
宗教 イスラム教スンナ派
サイン
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オルハン(Orhan, 1281年[2][注 2] - 1362年)は、オスマン帝国の第2代皇帝(在位: 1324年 - 1362年)。初代皇帝オスマン1世の子。

オルハンの時代のオスマン帝国は、遊牧と略奪によるガーズィー英語版[注 3]集団から君侯(ベイリク)国家への転換期であったといえ[3]、実質的な建国者と評価される事も多い[4]

生涯

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オルハンの治世初期(1326年)と治世末期(1361年)のオスマン帝国の勢力圏の比較図

即位、ブルサの征服

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オルハンは即位以前の経緯がはっきりせず、母親は「オメル・ベイ」という人物の娘[注 4]だが、このオメル・ベイという人物自体が経歴不詳である。即位の経緯も「後継者の座をアラエッティンという兄弟と譲り合った末にオルハンが即位した(アラエッティンは小村の領主として静かに生きる道を選んだ)」と「オスマンの死後後継者争いが起きて王子たちが争っていたと仄めかす話」という正反対の内容(後者は東ローマ帝国の年代記より)が伝わっており、オスマン帝国側のオスマンの崩御後すぐに作られた公文書にも王子の名が列挙される中アラエッティンの名が無いことから、小笠原弘幸などは「アラエッティンとの兄弟愛溢れる逸話は、オスマン没後の王子たちの争いを糊塗するために創作された可能性がある。」としている[5]

即位年については、1324年1326年の2説が有力であり、即位時期もオスマン崩御後に帝位を継いだ説のほか、オスマンの存命中にすでに即位していたとする説も存在する[3]

オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた[6]。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。

1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ[7]、オスマン1世が行ったブルサ包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリ英語版の城砦を破壊した。

1326年4月6日にブルサの支配者を降して同地を征服、首都に定めてオスマン1世を埋葬した。遷都後は配下をコジャエリ方面に派兵、1331年3月2日にニカイア(現・イズニク)、1337年にニコメディア(現・イズミット)を征服して勢力を拡大する。

1329年にオスマンのニカイア包囲を解くため、東ローマ帝国より2000の正規兵が派遣されるが[8]ペレカノンの戦い英語版で皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン1世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった[9]。ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会したイブン・バットゥータは『大旅行記』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた[10]。ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。

1335年から1345年の間にバルケスィルカレスィ侯国英語版を併合[2]、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われる[11]この併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍[8]をそのまま手に入れ、バルカン半島進出の手段を獲得した。

バルカン半島への進出

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このようにオスマン帝国と東ローマ帝国の間には軍事衝突が頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国はオスマン帝国よりもサルハン侯国アイドゥン侯国を危険視しており[12]、やがて両帝国の間に同盟関係が生まれる。オルハンと東ローマ皇帝アンドロニコス3世が初めて対面したのは1333年のニコメディア包囲中と言われ、カレスィ侯国を牽制するために両帝国は同盟した。

1341年のアンドロニコス3世没後、東ローマ帝国ではヨハネス5世パレオロゴスヨハネス6世カンタクゼノスの間で帝位をめぐる内紛が起こり、帝国間の同盟はより重要性を増した。ヨハネス5世とヨハネス6世はいずれもアナトリア半島の君侯国家と同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世に味方して彼の登極を助けた。

1346年、オルハンはヨハネス6世の娘テオドラ英語版を妻に迎え[注 5]、ヨハネス6世に敵対するヨハネス5世およびセルビア王国を攻撃するため、6000の兵士[13]をバルカン半島に派遣、1337年にオスマン軍は初めてヨーロッパに渡りトラキアで略奪を行った[14][注 6]。バルカン半島での軍事作戦においては長子のスレイマン英語版の活躍が大きく、セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンによるサロニカ攻撃の阻止、チョルル英語版の制圧は、いずれもスレイマンの軍功である。

1352年から1353年の間に、ヨハネス6世への援助と引き換えにオルハンはカリポリス(現・ゲリボル)付近のチンペ城砦英語版を獲得した[15]

1354年3月2日[16]にカリポリス一帯は大地震に見舞われ、カリポリスの街と城壁も被害を被ると、スレイマンはこの地震に乗じてカリポリスとテキルダーボラユル英語版マルカラ英語版などのマルマラ海沿いの地域を占領した。ヨハネス6世はオスマン帝国が占領した都市の返還を両帝国の友好関係に訴え、また見返りとして大金の支払いを提案したが[16]オルハンは要求に応じず、バルカン半島の入り口となる拠点を手放そうとはしなかった。

一連のバルカン半島へのオスマンの進出は「蛮族の入寇」とは全く異質のものであり[17]、こうしたオスマン側の動向を受けて、ヨハネス5世はオルハンの子ハリル英語版に娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化を図った。

晩年

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ブルサのオルハンの墓

オルハンの崩御年については諸説あり、1359年から1362年の間と推定されている。

有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは1357年[18]もしくは1362年[19]。に鷹狩りの最中の事故によって、父よりも先に没していた。 そのため、バルカン半島方面におけるオスマン帝国の軍事活動は一時的に停滞した[20]

残された王子はハリルとムラトの2人の名が伝えられているが、王位継承がどう行われたのかははっきりせず、スレイマンの崩御後ムラト即位まで話が飛んでいる(オルハンが崩御した説明がない)年代記まであるほどで、これは後世の年代記編纂者がこの部位を削除した結果と考えられており[21]、おそらくはオルハンの崩御後に息子らの間で後継者争いが起き[22]、継承戦に勝利した次子のムラトが帝位を継いだ。

内政

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軍事集団から国家への脱皮

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オルハンの治世にオスマン帝国は支配領域を広げるが、支配下に入れた地域に暮らす定住民、都市を往来する商人や旅人といった、これまでオスマンが率いていた遊牧民とガーズィーとは異質の人々を統治する政治機構を整備する必要に迫られた[23]

オルハンは統治体制の確立において、ブルサの東ローマ帝国の行政機構と行政官を受け継ぎ、後のオスマン帝国が規範とする制度を構築した[3]。体制の確立においては東ローマの人材以外に、外部から招かれたイスラム法学者(ウラマー)、カラマン侯国英語版イルハン朝といった周辺のイスラム国家から流入した書記の力も欠かせなかった[24]。招聘されたウラマーたちはイスラム法官(カーディー)として、国家統治において直面する民政と裁判の問題をイスラム法(シャリーア)に依って解決した[25]

また、彼らウラマーはシャリーア以外に文章の読解、イスラムの先進国家の知識も持ち合わせており、行政分野においても重宝された[26]。オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初のメドレセ大学)を創設した[26]

法官の整備と共に君主を補佐する役職が設置され、行政を統括する宰相に外来のウラマーであるアラエッディン・パシャ英語版を、軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。

軍制改革の試み

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オルハンの時代に、オスマン軍の軍服にはジハードの戦士の衣服を元にした、民族的な帽子が取り入れられる[24]

当時のオスマン軍の兵力はトルコ系モンゴル系の遊牧民、神秘主義(スーフィズム)を信奉する修道士、キリスト教徒であるエヴレノス家にミハル家などで構成される雑多な集団であった[27]。こうした自主性の強いオスマン軍への統制を強化し[28]、より効率のいい軍事活動を展開するために[29]、従来の遊牧民を中心とする軍団から君主直属の常備軍への再編成が行われた。

トルコ系の民族から徴募した歩兵(ヤヤ)と騎兵(ミュセッレム)[注 7]に軍団を再編成し、2つの軍隊に編入された彼らは軍役中は給与を現金で受け取り、平時は税を課されず農業に従事していた[30][注 8]

非正規の騎兵アクンジュ(『スレイマン・ナーメ』より)

だが、常備軍の編成は満足な結果を残さず、どちらも補助軍の一部に格下げされ、常備軍制定の実現は奴隷軍人からなるイェニチェリが創設されるムラト1世の治世を待たなければならない[30][注 9]

他方、同時代に編成された非正規の騎兵(アクンジュ)[31]は、バルカン半島での勢力拡大に大いに貢献した。彼らは給料が支払われない代わりに略奪品を獲得する権利を持ち、バルカン半島の国境地帯に配属された。機動力に優れるアクンジュが敵国に侵入を繰り返した後に本隊が攻め込む戦法は、バルカン半島での領土拡大に有効であった[32]

オーストリアの歴史家パウル・ヴィッテクドイツ語版はこうしたオスマン帝国の軍事組織の発展より、非イスラム世界の征服を目的とする、宗教的かつ戦士的なガーズィー精神の影響を指摘した[31]

アクチェ銀貨

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ヒジュラ暦727年(1326年 - 1327年)[33]にオスマン帝国独自の貨幣であるアクチェ英語版銀貨[34]が初めて鋳造された。この硬貨は東ローマ帝国、トレビゾンド帝国で鋳造された硬貨を参考にしており[35]、硬貨には「アッラーよ オスマンの子オルハンの国を永遠たらしめ給え[36]という言葉が刻まれていた。このアクチェ銀貨は、17世紀に至るまでオスマン帝国の通貨の基本単位として長く用いられた[35]

ブルサの統治

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オルハンがブルサに建立したモスク

オルハンが獲得したブルサはアナトリアにおける商業の一大拠点として発展する。ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人の中には、イランから流れてきた絹製品と自国の毛織物を交換するためにブルサを訪れる者もいた[37]

1330年代にブルサの聖エリアス教会をモスクに改修し[38]、父オスマンをモスクの墓に埋葬した。モスクは火災や地震によって何度も損壊するが、その度に修復、再建されて現在もブルサの中心地に姿を留めている。

人物

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性格

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トルコ共和国の国定教科書では、彼の誠実な人格と信仰心が称賛されている[20]。彼の性格を表すエピソードとして、攻略直後のイズニクにモスク、マドラサと共に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いた話が紹介されている。

また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、オルハンが首都に1か月も留まることなく国内を見回り、時には異教徒と戦ったという伝聞が記されている[39]

脚注

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注釈

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  1. ^ ニールーフェル・ハトゥンは「ホロフィラ」の名でも知られる。(永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、53頁)
  2. ^ 『岩波西洋人名辞典 増補版』(岩波書店、1981年12月)では、1281年
  3. ^ 「ガーズィー」とは、イスラーム世界の辺境を守り、異教徒との戦争に従事する「信仰の戦士」という意味である。(小山皓一郎「ガージー」『新イスラム事典』収録(平凡社、2002年3月))
  4. ^ 歴代オスマン帝国君主の生母の内、唯一奴隷でないと確実視されている人物である。(小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、52頁)
  5. ^ ヨハネス6世は別の同盟者であるアイドゥン侯国のウムルにも娘を嫁がせた。(林『オスマン帝国500年の平和』、54頁)
  6. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁によれば1346年。
  7. ^ R.マントランは、オルハン時代の騎兵はシパーヒー、シリフダル、ウルフェジ、グレバで構成されたとしている。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)
  8. ^ 尚樹啓太郎によれば、歩兵は移民、騎兵は古参の将兵より選抜された。(尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁)
  9. ^ イェニチェリが創設された年代に定説は無いが、次代のムラト1世の治世と推定する研究者が多い。とはいえ、R.マントランのように、オルハンの治世にイェニチェリが創設されたとする研究者も存在する。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)

出典

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  1. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385-386頁
  2. ^ a b 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻
  3. ^ a b c U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、30頁
  4. ^ 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  5. ^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、32・35頁
  6. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、34頁
  7. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、41頁
  8. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、813頁
  9. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  10. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385頁
  11. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』、97頁 R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁 N.アクシト『トルコ 2』、55頁 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  12. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁
  13. ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、830頁
  14. ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁
  15. ^ N.アクシト『トルコ 2』、54頁
  16. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、840頁
  17. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁
  18. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、99頁 N.アクシト『トルコ 2』、56頁 U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、41頁
  19. ^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、41頁
  20. ^ a b N.アクシト『トルコ 2』、56頁
  21. ^ 小笠原『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』、42-43頁
  22. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、56頁
  23. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、36-37頁
  24. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁
  25. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、37-38頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、50頁
  26. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、40頁
  27. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、46-47頁
  28. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、43頁
  29. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、96頁
  30. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、44頁
  31. ^ a b R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁
  32. ^ 林『オスマン帝国の時代』、12頁
  33. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、45-46頁
  34. ^ 「アクチェ」とは「小さく白い」という意味である。
  35. ^ a b 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊國屋新書)、96-97頁
  36. ^ N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)、56頁より引用
  37. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、49頁
  38. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、384頁
  39. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、312頁

参考文献

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  • 小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』中公新書、2018年。ISBN 978-4-12-102518-0 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会、1999年2月)
  • 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書講談社、1992年4月)
  • 永田雄三羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15、中央公論社、1998年1月)
  • 林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット、山川出版社、1997年11月)
  • 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10、講談社、2008年10月)
  • 三橋富治男「オルハン」『アジア歴史事典』2巻収録(平凡社、1959年)
  • 三橋富治男『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊國屋新書、紀伊國屋書店、1962年)
  • N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
  • イブン・バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注、東洋文庫、平凡社、1998年3月)
  • ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳、アリアドネ企画、1998年6月)
  • ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳、文庫クセジュ、白水社、1982年7月)

関連項目

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