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アデン危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アデン危機
英語:Aden Emergency
アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命)

アデン保護領英語版の位置
1963年12月10日1967年11月30日
場所南アラビア連邦、アデン保護領
結果 イギリスの撤退
イエメン人民民主共和国(南イエメン)の独立
衝突した勢力

イギリス帝国の旗 イギリス帝国

イエメン国民解放戦線英語版(NLF)
占領下の南イエメン解放戦線英語版(FLOSY)

支援組織
エジプトの旗 エジプト
イエメンの旗 イエメン・アラブ共和国(北イエメン)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指揮官
イギリスの旗 ハロルド・ウィルソン首相
イギリスの旗マイケル・レ・ファヌ英語版海軍大将
イギリスの旗マイケル・ビーサム英語版空軍准将
イギリスの旗コリン・ミッチェル英語版陸軍中佐
カーターン・ムハンマド・アル=シャアビー英語版
アブドゥッラー・アル・アスナグ
エジプトの旗 ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領
戦力
イギリス軍:最高3万人[1](1967年11月時点で3500人)[2]
南アラビア連邦軍:1万5000人[3]
被害者数
イギリス
死亡:90~98人
負傷:510人[4][5]
南アラビア連邦
死亡:17人
負傷:58人
死亡:382人
負傷:1714人[6]
死亡合計:2096人[7]

アデン危機(アラビア語:ثورة 14 أكتوبر(10月14日革命))は、1963年12月10日1967年11月30日にかけて、アデン保護領英語版南アラビア連邦で行われた、南イエメンイギリスから独立した戦争である。 ナーセル大統領率いるエジプトが、汎アラブ主義の為に独立軍を支援した。 また、ソ連も独立軍を支援した。

背景

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イギリス英領インドへの海路に発生する海賊対策の拠点として、アデンを占領していた。

1869年スエズ運河が開通すると、給炭港として重要性を増した。

1947年インド独立後は、イギリスにとっての重要性は低下した。

1956年7月26日エジプトナセル大統領がスエズ運河を国有化した。

10月29日イギリスフランスイスラエルがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争が発生した。

11月2日アメリカソ連が共同で3国に圧力をかけ、撤退させた。

1958年、エジプトがシリアと連合し、アラブ連合共和国を建国した。

1961年、シリアがアラブ連合共和国から脱退し、連合は事実上消滅した。

NLFとFLOSYの誕生

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1963年以降、様々な政治目標を持つ反イギリスゲリラが活動していたが、イエメン国民解放戦線英語版(NLF)と占領下の南イエメン解放戦線英語版(FLOSY)の2大組織に集約していった。 NLFとFLOSYはイギリスだけでなく相互に攻撃し合っていた。

闘争開始

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1963年12月10日、NLFがアデンのコルマクサル空港で、ロンドンに戻る途中のイギリスのアデン高等委員会のケネディ・トレヴァスキスを手榴弾で攻撃した。 この攻撃で巻き込まれた1人が死亡し、50人が負傷した。 同日、アデンに緊急事態宣言が出された。

1965年のアデン

その後のNLFとFLOSYはイギリスへの攻撃を強め、コルマクサル王立空軍基地英語版への攻撃では、イギリス人の子供が1人死亡し、4人負傷した。 ゲリラは非番のイギリス人軍人や警察官を中心に殺害した。 殆どの攻撃はアデンの古いアラブ人地区であるクレイター英語版で行われた。 イギリス軍はNLFやFLOSYによってクレイターに武器が運び込まれるのをダラ道で阻止しようとしたが、あまり効果が無かった。 イギリス軍にも犠牲者は出たが、組織間抗争の為ゲリラの被害は遥かに大きかった。

1964年、地上作戦を行う為に第24歩兵旅団英語版が到着した。 彼らは独立戦争で敗北するまでアデンに留まった。

1965年までに、コルマクサル王立空軍基地では9つの飛行中隊が作戦を行っていた。 この中にはヘリコプターホーカー ハンターから成る輸送部隊が含まれた。 ゲリラはRP-3ADENで反撃した。

アデン街頭抵抗運動

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アデン街頭抵抗運動
1967年のアデン

1967年1月19日~20日、NLFはアデン街頭抵抗運動英語版を仕掛けた。 アデン警察の手には負えなかった為、高等委員会のリチャード・ターンブル卿はイギリス軍を派遣して抵抗運動を蹴散らした。 しかし、すぐにFLOSY派の抵抗運動がそれに代わった。 抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。 イギリス軍は40回発砲し、ゲリラは60発の手榴弾で応えた。 飛行中のアデン航空英語版ダグラス DC-3が戦闘に巻き込まれ、墜落し乗客が全員死亡した。

アラブ人警察官の蜂起

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1967年6月、第三次中東戦争が発生し、アデンの状況は更に悪化した。

6月20日、エジプトのナセル大統領の「イギリスが戦争でイスラエルを支援した」との主張に呼応した南アラビア連邦の何百人もの警察官が、イギリスに反旗を翻した(en:Arab Police mutiny)。 この蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍を殺害し、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。 イギリス人がアデンから避難する様子が、「不毛の岩から生ける石まで」と記録されている。

クレイターの戦い

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クレイターの戦い英語版の結果イギリス軍は撤退したが、その間にイギリス海兵隊45コマンド英語版が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。 しかし、アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSYの兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。 イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。 イギリス軍はシラ島のオスマン要塞から狙撃したが、装甲車の砲撃によって狙撃手は殺害された。

7月、スコットランドのコリン・ミッチェル陸軍中佐率いるアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ英語版がクレイターを制圧した。

イギリス軍の撤退

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11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退した。 この撤退はイギリスのハロルド・ウィルソン首相の計画より早かった為、後継政府を決める事が出来なかった。 その後、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を建国した。

独立後

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アデンのイギリス海軍基地は閉鎖された。

第1女王竜防衛隊(1967年・アデン)
警戒するイギリス兵(1967年・アデン)

脚注

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  1. ^ Wars and Global Conflict: Confrontations and Hostilities”. Modern-Day Commando. 2014年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月26日閲覧。
  2. ^ Aden Emergency”. nam.ac.uk. 2016年10月10日閲覧。
  3. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  4. ^ Roll of Honor
  5. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  6. ^ ADEN EMERGENCY PSYOP 1963–1967”. PsyWar.Org. 2016年10月10日閲覧。
  7. ^ J.E.Peterson, British Counter-Insurgency Campaigns and Iraq. August 2009: p.12.

参考文献

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  • Laffin, John (1986). Brassey's Battles: 3,500 Years of Conflict, Campaigns and Wars from A-Z. London: Brassey's Defence Publishers. ISBN 0080311857 
  • Naumkin, Vitaly, Red Wolves of Yemen: The Struggle for Independence, 2004. Oleander Press. ISBN 0-906672-70-8
  • Walker, Jonathan, Aden Insurgency: The Savage War in South Arabia 1962–67 (Hardcover) Spellmount Staplehurst ISBN 1-86227-225-5

外部リンク

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