アドルファス (ケンブリッジ公)
アドルファス Prince Adolphus | |
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ケンブリッジ公 | |
在位 | 1801年11月27日 - 1850年7月8日 |
続柄 | ジョージ3世第7王子 |
全名 |
アドルファス・フレデリック Adolphus Frederick |
称号 |
ケンブリッジ公爵 ティペラリー伯爵 カロデン男爵 |
身位 | Prince(王子) |
敬称 | His Royal Highness(殿下) |
出生 |
1774年2月24日 グレートブリテン王国 イングランド、ロンドン、バッキンガム宮殿 |
死去 |
1850年7月8日(76歳没) イギリス イングランド、ピカデリー、ケンブリッジ・ハウス |
埋葬 |
1930年1月10日 イギリス イングランド、ウィンザー城、聖ジョージ礼拝堂 |
配偶者 | アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル |
子女 |
ジョージ オーガスタ メアリー・アデレード |
家名 | ハノーヴァー家 |
父親 | ジョージ3世 |
母親 | シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ |
ケンブリッジ公爵アドルファス王子(Prince Adolphus, Duke of Cambridge KG GCB GCMG GCH PC、1774年2月24日 – 1850年7月8日)は、イギリスの王族。ケンブリッジ公。
生涯
[編集]イギリス王ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツの七男として、1774年2月24日にバッキンガム宮殿で誕生した[1][2]。キューで教育を受けた後、1786年にドイツのゲッティンゲン大学に進学した[1]。同年6月2日、ガーター勲章を授与された[1]。
1793年に大佐としてハノーファー軍に入隊、1798年に中将に昇進した[1]。1803年にイギリス陸軍に転じ[1]、新設のキングズ・ジャーマン軍団(en:King's German Legion)の司令官となった。1808年4月に(1803年9月に昇進した扱いとして)陸軍大将に昇進、1813年11月には陸軍元帥に進む[1]。1805年から1850年に死去するまでコールドストリームガーズ隊長を務めた[1]。
1801年11月27日、父王によってケンブリッジ公爵、アイルランドにおけるティペラリー伯爵、ノース・ブリテンにおけるカロデン男爵の称号を授けられた[1][2]。いずれも連合王国貴族の爵位だったが、『完全貴族名鑑』によれば、アイルランド貴族とスコットランド貴族風を出すために「アイルランドにおける」「ノース・ブリテンにおける」(ノース・ブリテンはスコットランドを指す)といった土地指定がなされた[1]。1802年2月3日に枢密顧問官に任命され、1811年から1814年までセント・アンドルーズ大学総長を務めた[1]。
1815年1月2日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを、同年8月12日にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを、1825年6月20日に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与され、同時に聖マイケル・聖ジョージ騎士団グランド・マスターに就任した[1]。ほかにもプロイセン王国から黒鷲勲章を授与され、1844年にロシア帝国から聖アンドレイ勲章を授与された[1]。
1817年、兄の摂政王太子ジョージ(のちのジョージ4世)の一人娘シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズが産褥で急死した。当時、ジョージ4世以外の6人の兄弟たちは全員独身であった。王位継承者を作るため、ある者は長年の愛人との関係を断ち、配偶者選びを始めて競うように結婚した。そんな中、末弟のアドルファスは、1818年5月7日にヘッセン=カッセル家のオーガスタ(アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル)と結婚した。
選帝侯領から王国に昇格したハノーファーでは1816年11月から1837年6月まで副王を務めた[1]。政治ではトーリー党穏健派に属し、『完全貴族名鑑』はケンブリッジ公爵がハノーファーを「賢明に統治した」(he governed Hanover judiciously as Viceroy)と評した[1]。1837年、姪ヴィクトリア女王が即位すると、123年ぶりにイギリスはハノーファーとの同君連合を解消した(ハノーファー王国は女子の継承権を認めないため)。アドルファスの兄アーネストがハノーファー王となったことから、彼は家族を連れて帰国した。
1847年から1850年に死去するまで大英博物館理事を務めた[1]。
1850年7月8日、アドルファスはピカデリーのケンブリッジ・ハウスで死去し[1]、ウィンザー城内のセント・ジョージズ礼拝堂へ埋葬された[2]。
家族
[編集]1818年5月7日、アウグステ・フォン・ヘッセン=カッセル(1797年7月25日 – 1889年4月6日、ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯フリードリヒの娘)と結婚した[1]。
- ジョージ(1819年3月26日 - 1904年3月17日) - 第2代ケンブリッジ公[1]
- オーガスタ(1822年 - 1916年) - メクレンブルク=シュトレーリッツ大公フリードリヒ・ヴィルヘルム妃
- メアリー・アデレード(1833年 - 1897年) - テック公フランツ・フォン・テックの妻。ジョージ5世妃メアリー・オブ・テックの母。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 497–498.
- ^ a b c Weir, p. 296
参考文献
[編集]- Weir, Alison (2008). Britain's Royal Families (英語). Vintage.
関連図書
[編集]- Adolf Schaumann (1875). "Adolphus Frederick, Königlicher Prinz von Großbritannien". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 1. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 103–105.
- Grant, Arthur Henry (1885). Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co. pp. 139–140. . In
- Palmer, Alan (21 May 2009) [23 September 2004]. "Adolphus Frederick, Prince, first duke of Cambridge". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/169。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Adolphus Hanover
- アドルファス - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "アドルファスの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
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コールドストリームガーズ隊長 1805年 – 1850年 |
次代 ストラフォード伯爵 |
学職 | ||
先代 初代メルヴィル子爵 |
セント・アンドルーズ大学総長 1811年 – 1814年 |
次代 第2代メルヴィル子爵 |
名誉職 | ||
先代 サー・トマス・メイトランド |
聖マイケル・聖ジョージ騎士団グランド・マスター 1825年 – 1850年 |
次代 第2代ケンブリッジ公爵 |
先代 ヨーク=オールバニ公爵 |
孤児養育院院長 1827年 – 1850年 |
次代 第2代ケンブリッジ公爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | ケンブリッジ公爵 第4期 1801年 – 1850年 |
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