アブー・イーサー・ムハンマド・ティルミズィー
アブー・イーサー・ムハンマド・ティルミズィー(アラビア語: أبو عيسى محمد بن عيسى بن سورة بن موسى بن الضحاك السلمي الترمذي, ラテン文字転写: Abū ‘Īsā Muḥammad ibn ‘Īsā ibn Sawra ibn Mūsā ibn al-Daḥḥāk al-Sulamī al-Tirmidhī)は9世紀のイスラーム法学者である。
情報源
[編集]ティルミズィーの生涯に関する情報の情報源としては、後世の学者が書いたハディース学者の列伝、たとえば、ミッズィー(1341年没)の Tahdhīb al-kamāl や、ザハビー(1348年没)の Siyar a‘lām al-nubalā’ がある[1]。
生涯
[編集]824年にティルミズ(テルメズ)郊外、ジーフーン川(アム川)沿いの村、ブーグ(Būgh)で生まれた。生家はアラブ部族のバヌー・スライマーンに属す。幼少期より村のウラマーを師匠としてイスラーム諸学の学習に熱心であり、20歳のときに旅に出て、ホラーサーン各地を巡ったのち、クーファ、バスラを経てヒジャーズに至った。ティルミズィーは、ハディース学とイスラーム法学形成のキーパーソンであるブハーリーをはじめ、ムスリム・ブン・ハッジャージュ、アブー・ダーウード・スィジスターニーと比較しても、膨大なハディースを収集したことで知られている。892年10月9日に故郷の村で亡くなった。
ティルミズィーは盲目であったが、そうなった理由は神への畏れのあまり泣きすぎたからと言われている。あるいは、ブハーリーの死を知って泣きすぎたからとも言われている。
評価
[編集]ティルミズィーは9つの著作を書いたが、現代まで散佚せず残ったものはそのうちの4つである。『集成』(Jami` at-Tirmidhi)の書名でよく知られる作品は、スンナ派六大伝承書の一書に数えられる、ハディース学において重要な著作である。 al-Ilal という著作は『集成』で採用した方法を開示する内容である。ハディース学における定義の多様性と正確な分類語彙は、ティルミズィーに帰せられるべきである。
ティルミズィーのハディースの提示方法は各ハディースの差異を比較可能に提示するものであって、正統派カラームは以後、この方法を踏襲することになった[2]。ティルミズィーは不自然にもアブー・ハニーファに言及しておらず、これはティルミズィーがラアイ(個人的見解)を採用することに反対の立場であったことの反映とみられる。ティルミズィーにより法学派間での意見の相違が育っていったともいえる[3]。
もう一つのハディース集 al-Shamā’il al-Muhammadiyya では預言者ムハンマドの預言者性について紹介する。 Kitāb al-Zuhd あるいは Kitāb al-Asmā’ wa l-Kunā とも呼ばれる。
ハンバル法学派の一部には、ティルミズィーを非常に激しく非難する者もいる。例えば10世紀の法学者アブー・バクル・ハッラールは、ティルミズィーが収録したサハーバ・ムジャーヒドが伝えた預言者のイスラーに関するハディースを拒絶し、ティルミズィーがジャフム派的異端に陥っているとした。
出典
[編集]- ^ JUYNBOLL, G.H.A. (2000). "AL-TIRMIDHI". In Bearman, P. J. [in 英語]; Bianquis, Th.; Bosworth, C. E. [in 英語]; van Donzel, E. [in 英語]; Heinrichs, W. P. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume X: T–U. Leiden: E. J. Brill. p. 546. ISBN 90-04-11211-1。
- ^ Ignaz Goldziher (1890) (allemand). Muhammedanische Studien. 2. Halle (Salle). p. 254
- ^ F. Sezgin (1967) (allemand). Geschichte des arabischen Schrifttums. 1 (Brill ed.). Leiden. p. 154