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ムスリム・ブン・ハッジャージュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムスリム・ブン・ハッジャージュ
مسلم بن الحجاج
生誕820年前後
ニーシャープール
死去875年5月
墓地ナーサラーバード
(ニーシャープール郊外)
時代イスラーム黄金時代
宗教イスラム教
教派スンナ派
法分野シャーフィイー学派
主な関心ハディース
主な著作サヒーフ・ムスリム

ムスリム・ブン・ハッジャージュمسلم بن الحجاج)は、9世紀イランのハディース学者(ムハッディス)。スンナ派六大ハディース集英語版のうち、もっとも権威があるとされる2つの「真正集」のうち1書を著した(『サヒーフ・ムスリム』)。ペルシア人[3]

特にイランではモスレム・ニーシャープーリー(مسلم نیشاپوری‎, Muslim Nīshāpūrī)ともいい、信者からはイマーム・ムスリムと呼ばれる。なお、「ムスリム」は名前(イスム)である。

生涯

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アラビア語で尊号や父祖の名前も合わせた名前は、アブル・フサイン・アサーキルッディーン・ムスリム・ブヌル=ハッジャージュ・ブン・ワルド・ブン・カウシャーズル=クシャイリー・アン=ナイサーブーリー(أبو الحسين عساكر الدين مسلم بن الحجاج بن مسلم بن وَرْد بن كوشاذ القشيري النيسابوري‎, Abū al-Ḥusayn ‘Asākir ad-Dīn Muslim ibn al-Ḥajjāj ibn Muslim ibn Ward ibn Kawshādh al-Qushayrī an-Naysābūrī)という[注釈 1]

ムスリム・ブン・ハッジャージュは、アッバース朝時代のホラーサーン属州の町、ニーシャープールに生まれた。生まれた年については諸説あり、ヒジュラ暦202年(西暦817/818年)説[6][7]、204年(819/820年)説[4][8]、206年(821/822年)説がある[6][7][9]

ムスリムの生まれた年やその日付等の情報について、14世紀のシャーフィイー学派の歴史家、ザハビー英語版は「ムスリム・ブン・ハッジャージュはヒジュラ暦204年に生まれたといわれているけれども、私は、彼がもっと前に生まれていると思う」と述べている[4]。13世紀のイブン・ハッリカーン英語版は、どんな高名なハディース伝承学者の文献に当たっても確信を持てなかったという[9]

イブン・ハッリカーンが調べたところによると、11世紀のニーシャープールの学者イブン・バイイー英語版は、Kitab `Ulama al-Amsar という著書の中で、ムスリム・ブン・ハッジャージュがヒジュラ暦261年ラジャブ月25日(西暦875年5月)に55歳で亡くなり、ニーシャープール郊外のナーサラーバードに埋葬されたと書いていたとされる[9][注釈 2]。13世紀ディマシュクの学者イブン・サラーフ英語版は、これに基づいてムスリムの生年をヒジュラ暦206年(西暦821/822年)と計算し、自著の中でそのように書いたとされる[9]。イブン・ハッリカーンはこれらを踏まえて、ムスリム・ブン・ハッジャージュの生年をヒジュラ暦200年(西暦815/816年)以後の生まれではあるだろうとした[9]

ニスバの「クシャイリー」(al-Qushayri)は、ムスリムがアラブのバヌー・クシャイル部族(Banu Qushayr)の一員であることを表示する[2][8]。そのため、ムスリムの父系先祖の一人が、イスラーム教徒の帝国が大きく拡大した正統カリフ時代に、アラブが新しく征服したペルシアの地にやってきたクシャイル部族の移住者であるという解釈もある[8]。しかしながら、ムスリム・ブン・ハッジャージュはアラブ系ではない。彼はマワーリー、すなわち異教からイスラームに改宗した人々の一人であった[2]。ムスリム・ブン・ハッジャージュの父系先祖は、クシャイル部族の有力者に仕えた奴隷であり、解放されると共にイスラームを受容した人物であろう[4]。なお、ムスリムは、クシャイル部族にワラー(wala' )、すなわち協力したため、クシャイリーとあだ名されたというサムアーニーの説もある。

ムスリム・ブン・ハッジャージュは若い頃、ヒジャーズ地方、エジプト、シャーム地方を旅して周り、故郷のニーシャープールに戻ってきた[6]。そこで生涯の友となるブハーリーに出会った。

ムスリム・ブン・ハッジャージュが直接ハディースを伝え聞いた師としては、特に、ハルマラ・ブン・ヤフヤーアラビア語版[注釈 3]サイード・ブン・マンスールアラビア語版アブドゥッラー・ブン・マスラマ・カアナビーアラビア語版ズハリーアラビア語版ブハーリーイブン・マイーン英語版ヤフヤー・ブン・ヤフヤー・ニーシャーブーリー・タミーミーアラビア語版の名前が挙げられる。弟子としては、ティルミズィーイブン・アビー・ハーティム・ラーズィーアラビア語版イブン・フザイマ英語版などがおり、いずれもハディースに注解した。

著作

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1910年ごろに刊行されたものの表紙

以下の文献の著者がムスリム・ブン・ハッジャージュに帰せられている。『サヒーフ・ムスリム』を含むリストの上4文献を除いて残りは伝存していない。ほとんどがハディース学と伝承経路(イスナード)に関する著作である[10]

  • Al-Kunā wal-Asmā’
  • Tabaqāt At-Tabi`īn
  • Al-Munfaridāt wal-Wijdān
  • Sahīh Muslim
  • Awlād As-Sahābah (サハーバ(教友)の子孫たち)(散逸)
  • Al-Ikhwah wa Al-Akhawāt (兄弟と姉妹)(散逸)
  • Al-Aqrān (同輩)(散逸)
  • Awhām Al-Muhadithīn (ムハッディスの光)(散逸)
  • Dhikr Awlād Al-Husayn (フサインの子孫について)(散逸)
  • Mashāyikh Mālik (マーリクの師について)(散逸)
  • Mashāyikh Ath-Thawrī (サウリーの師について)(散逸)
  • Mashāyikh Shu`bah (シュウバの師について)(散逸)

ムスリム・ブン・ハッジャージュが巷間に流布するハディース預言者ムハンマドの言行録)を精選し、真贋を見極めて編纂した『サヒーフ・ムスリム[注釈 4]は、特にスンナ派において『クルアーン』に次ぐ権威の二大真正集の一書、という位置づけが定着している[11]。ところが、そのようにみなされるに至った経緯については、あまりよく研究されていなかったところ、Brown (2007) は、少なくとも次のような正典化(canonization)の過程があったことを明らかにした[11]

ムスリム・ブン・ハッジャージュの仕事の価値に最初に気付いたのは、スンナ派のウラマー、イスハーク・ブン・ラーフワイヒ英語版である[11]:86[12][1]。イスハークの同時代人、アブー・ズルア・ラーズィー英語版などは当初これを認めず、ムスリムが自分でも真正(サヒーフ)と認めたハディースをたくさん取り除いてしまった、不良(ダイーフ)とみなされた伝承者が伝えるハディースを入れてしまったなどと非難した[11]:91-92, 155

のちに、イブン・アビー・ハーティム・ラーズィーアラビア語版は、ムスリム・ブン・ハッジャージュが信頼に値し、ハディースに関する大学者の一人であるとして賞賛した[11]:88-89。しかし、イブン・アビー・ハーティムはアブー・ズルアや自身の父親アブー・ハーティム英語版に対しても、これに負けず劣らず最大級の賞賛を送っている[11]:88-89[注釈 5]。なお、イブン・ナディームのムスリム・ブン・ハッジャージュに対する評価は、イブン・アビー・ハーティムに基づいている[11]:88-89

その後、ムスリムの真正集の評価は、スンナ派ムスリムの間で徐々に高まっていき、ブハーリーの真正集に次いで権威のあるハディース集であるとみなされるようになった[11]。『サヒーフ・ムスリム』に収録されたハディースの総数は、数え方によって異なるが、3033個から 12000個のハディースが収められている[注釈 6]。そのうち2000個ほどが『サヒーフ・ブハーリー』にも収録されている[注釈 7]

脚注

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注釈

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  1. ^ The name of his father has sometimes been given as حجاج (Ḥajjāj) instead of الحجاج (al-Ḥajjāj). The name of his great-great-grandfather has variously been given as كوشاذ (Kūshādh[4] or Kawshādh), كرشان[5] (Kirshān, Kurshān , or Karshān), or كوشان (Kūshān or Kawshān).
  2. ^ ヒジュラ暦は純粋な太陰暦であり一年が太陽暦よりも10日ほど短かいため、55歳で亡くなった場合、太陽暦換算で53歳前後で亡くなったことになる。
  3. ^ 『サヒーフ』第2巻で何度も言及されるエジプトの学者[9]:369-370
  4. ^ 『日訳サヒーフ・ムスリム』の書名で日本ムスリム協会から日本語訳も出ている。
  5. ^ アブー・ズルアとアブー・ハーティムは互いに親戚同士。
  6. ^ 伝承経路が異なるものを別物とするか、文言が一部異なっても実質的に同じ内容を伝えるハディースを同じものとみなすかなどで個数に違いが生じる。
  7. ^ Lu'lu wal Marjan は 1900個と言い、Abi Bakr Muhammad b. 'Abdallah al-Jawzaqi は 2326個を数える[11]:84

出典

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  1. ^ a b Ibn Rāhwayh, Isḥāq (1990), Balūshī, ʻAbd al-Ghafūr ʻAbd al-Ḥaqq Ḥusayn, ed., Musnad Isḥāq ibn Rāhwayh (1st ed.), Tawzīʻ Maktabat al-Īmān, pp. 150–165 
  2. ^ a b c منهج الإمام مسلم بن الحجاج”. 2018年2月27日閲覧。
  3. ^ Frye, ed. by R.N. (1975). The Cambridge history of Iran. (Repr. ed.). London: Cambridge U.P.. p. 471. ISBN 978-0-521-20093-6 
  4. ^ a b c d Abdul Mawjood, Salahuddin `Ali (2007). The Biography of Imam Muslim bin al-Hajjaj. translated by Abu Bakr Ibn Nasir. Riyadh: Darussalam. ISBN 9960988198 
  5. ^ (Arabic) ‘Awālī Muslim: arba‘ūna ḥadīthan muntaqātun min Ṣaḥīḥ Muslim (عوالي مسلم: أربعون حديثا منتقاتا من صحيح مسلم). Beirut: Mu’assasat al-kutub ath-Thaqāfīyah (مؤسسة الكتب الثقافية)‎. (1985). https://books.google.com/books?id=fqkXAAAAIAAJ&q=%D9%83%D8%B1%D8%B4%D8%A7%D9%86#search_anchor 
  6. ^ a b c Imam Muslim”. 2018年2月27日閲覧。
  7. ^ a b Ahmad, K. J. (1987). Hundred Great Muslims. Des Plaines, Ill.: Library of Islam. ISBN 0933511167 
  8. ^ a b c Ali, Syed Bashir (May 2003). Scholars of Hadith. The Makers of Islamic Civilization Series. Malaysia: IQRAʼ International Educational Foundation. ISBN 1563162040. https://books.google.com/books?id=6HRKMXkxnkAC 
  9. ^ a b c d e f Ahmad ibn Muhammad ibn Khallikan (1868) [Corrected reprint]. Ibn Khallikan's Biographical Dictionary. III. translated by Baron Mac Guckin de Slane. Paris: Oriental translation fund of Great Britain and Ireland. p. 349. https://books.google.co.jp/books?id=lwlRAAAAcAAJ&pg=PA349 
  10. ^ Великий хадисовед имам Муслим”. РДУМ Удмуртии. 2011年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月28日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i Brown, Jonathan (2007). The Canonization of al-Bukhari and Muslim. Brill. http://www.brill.com/canonization-al-bukhari-and-muslim 2018年2月28日閲覧。 
  12. ^ Al-Hakim Nishapuri, Ma`rifat `ulum al-hadith, p98