コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アブー・サイード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アブー=サイードから転送)
アブー・サイード
ابو سعيد خان
イルハン朝第9代君主
在位 1316年 - 1335年

出生 1304年6月2日
死去 1335年11月30日
配偶者 オルジェイ・クトルグ
バグダード・ハトゥン 他
王朝 イルハン朝
父親 オルジェイトゥ
母親 ハーッジー・ハトゥン
テンプレートを表示

アブー・サイード・ハン(アラビア語: ابو سعيد خانAbū Sa`īd Khān、1304年6月2日 - 1335年11月30日)は、イルハン朝の第9代君主(在位:1316年 - 1335年)。父は第8代君主のオルジェイトゥ。名はアル・スルターヌル・アーディルともいわれ、「正しいスルタン」を意味する。アブー・サイード・バハードゥル・ハン(ابو سعيد بهادر خان Abū Sa`īd Bahādur Khān)とも呼ばれる。漢語史料では不賽因と表記される。

生涯

[編集]

即位

[編集]

父が存命中の1313年ホラーサーンの太守に任命された。

1316年に父が死去すると廷臣に推戴されてハン位を継いだ。若年のため、政務は父時代の宰相であるラシードゥッディーン(ラシード)やタージェッディーン・アリー・シャーペルシア語版らが担当し、また王朝の軍総司令官で後見人でもあるチョバンも補佐を務めた。アリー・シャーとラシードは常に対立しており、アリー・シャーの一味による讒言を受けたアブー・サイードは1317年10月にラシードを宰相職から罷免した。1318年7月18日、アリー・シャーに買収された廷臣から、ラシードが父オルジェイトゥを毒殺したという告発を受けると、ラシードとその息子でオルジェイトゥのシャーベット係(Sharbat-chi)として近侍していたイブラーヒームを処刑した。同年にジョチ・ウルスウズベク・ハンカフカスを越えて攻め込むと、侵入を阻止せんと2000のわずかな手勢を率いて出陣するが、交戦前にチョバン進軍の報告を聞いたウズベクは撤退した。

後見人チョバン

[編集]

チョバンに厳罰を科された将校がチョバン暗殺を企てると、サイードは軍を率いてチョバンを助けてかつての恩に応えた。1320年にチョバンとサイードの妹サティ・ベク英語版が結婚、アリー・シャーの失脚(進退窮まって自殺したと考えられる)後、国政は財務総監(サーヒブ・ディーワーン)にはラシードゥッディーンの息子ギヤースッディーン・ムハンマドが復権し、チョバンとその一族が担った。1323年にはマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドと和睦を成立させる。

ところがサイードは成長するにつれ、チョバンの権勢を憎悪するようになった。更に1325年にはチョバンの娘であるバグダード・ハトゥンに横恋慕してしまう。彼女は既にイルハン朝の有力なアミールであったシャイフ・ハサン(大ハサン)に嫁いでいたのだが、サイードは彼女を強引に妃にしようとした。チョバンはこれを憂えて、サイードに冬営地をバグダードにするべきと進言する一方で、娘夫婦をアフガニスタン南部のカラバクに移した。彼にすれば君主の一時的な横恋慕で引き離せば解決すると考えたのだが、サイードの恋心は募るばかりであった。そして1326年に自らの恋を邪魔するチョバンと一族は専横がすぎるとしてその討伐を決意。これに対してチョバンも対抗したが、ほとんどのアミールはサイードを支持してチョバンはヘラートに逃亡する。だがチョバンと息子たちは1327年に殺害され、バグダード・ハトゥンもサイードの妃となった。

最期

[編集]

以後は王朝を主導する有能な名臣は現れず、重臣間の権力闘争と反乱が相次いだ。若年のサイードはこれを抑制することができず、また王朝内の混乱を見てウズベク・ハンが1334年に再度侵攻する。1335年にサイードはこれを迎撃しようと出陣するが、11月30日に陣中で病死した。31歳没。

サイードには嗣子がおらず、アルグン系統の嫡流はこれをもって断絶した[1]。宰相ギヤースッディーン・ムハンマドなどイルハン朝の諸臣たちは、メリク・テムルの曾孫でホラーサーン方面を管轄していたアルパ・ケウン(家祖フレグの同母弟アリクブケの玄孫)を擁立した。

人物

[編集]
  • イブン・バットゥータは『三大陸周遊記』で、芸術を愛する、リュートの演奏に優れた人物と評している。
  • サイードの死に関して、『三大陸周遊記』では父と一族を殺戮したサイードに恨みを抱いたバグダード・ハトゥンの毒殺説が紹介されている。[2]
  • 「堂々たる風貌の君主、勇敢で才能豊か、寛大で機知に富んでいる」とマムルーク朝後期の歴史家のイブン・タグリービルディーは評しているが、彼はマムルーク朝の史家であり、サイードの時代に両国は友好関係にあったため、贔屓目で見られている可能性もある。

宗室

[編集]

父母

[編集]

后妃

[編集]

その他、氏名不詳の妃が多数いる。

[編集]
  • 男子 なし
  • 女子 名前不詳(ディルシャード・ハトゥンとの娘)[7]

脚注

[編集]
  1. ^ 妹のサティ・ベクは1335年には生存しており、この時点でアルグンの子孫が完全に絶えたわけではない。後に傀儡のハンとして擁立されたムハンマドジャハーン・テムルらも、サイードと同じくフレグを祖とする。
  2. ^ アルパの即位後、バグダード・ハトゥンはサイード毒殺とウズベク・ハンへの内通の嫌疑をかけられ処刑された。
  3. ^ オイラト部族長クドカ・ベキ家の親族であったテンギズ・キュレゲンの孫チチェクの娘。
  4. ^ チョバンの息子ディマシュク・ホージャと、ケレイト王家の後裔であったイリンチンの娘タルサン・ハトゥンとの娘。イリンチンは、オン・ハンの孫サリジャ(フレグの筆頭正妃ドクズ・ハトゥンの兄弟)の息子。オルジェイトゥの第8正妃(ハトゥン)であったクトルグ=シャー・ハトゥンは彼女の姉妹。
  5. ^ ガザン・ハンの妃イディ・クルトカ・ハトゥンのオルドを彼女との繋がりから受け継いだという。
  6. ^ 『高貴系譜』によると、アブー・サイードは幼少のみぎり彼女を娶ったといい、オルジェイトゥの第3正妃であったウルトゥズミシュ・ハトゥン(またはイルトゥズミシュ・ハトゥン)のオルドを委ねられたという。
  7. ^ 『高貴系譜』(Mu`izz al-Ansāb)ではアブー・サイードの子孫として、女子を表す四角の枠がひとつだけアブー・サイードの枠の下へ続いている。そこでの説明書きでは「その母親はディルシャード・ハトゥンであった」とのみ書かれて名前は付されていない。

関連文献

[編集]
  • 『アジア歴史事典』1巻(平凡社、1959年)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史 6』(佐口透 訳注、東洋文庫、平凡社、1979年11月)
  • 志茂硯敏『モンゴル帝国史研究序説 イル汗国の中核部族』(東京大学出版会、1995年3月)
  • フランシス・ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』(創元社、2009年5月)
先代
オルジェイトゥ
イルハン朝
1316年 - 1335年
次代
アルパ・ケウン