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ジャライル朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャライル朝
جلايريان
イルハン国 1336年 - 1432年 黒羊朝
ジャライルの位置
ジャライル朝の最大版図
公用語 ペルシア語
モンゴル語
アラビア語
首都 バグダード
( - 1358年
タブリーズ
(1358年 - 1388年
バグダード
(1388年 - 1411年
バスラ
(1411年 - 1432年
スルターン
1336年 - 1356年 タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ
1424年 - 1432年フサイン2世
変遷
建国 1335年
白羊朝により滅亡1432年

ジャライル朝ペルシア語 : جلايريان Jalāyīrīyān, 1336年 - 1432年)は、イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系イスラーム王朝ジャラーイル朝ジャラーイール朝とも呼ばれる。

王朝の名は、モンゴル帝国を構成した有力部族のひとつジャライル部から王家が出たことに由来している。

歴史

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イランにおけるジャライル部は、その先祖イルゲイ・ノヤンのとき、フレグの西征に従って西アジアの各地を転戦し、戦功によって代々イルハン朝に最上位の重臣として仕える有力部族集団となった。イルハン朝のフレグ家最後の君主アブー・サイード・ハンのとき、アブー・サイードの祖父アルグンを外祖父とし、ハンとは従兄弟の関係にあたるジャライル部当主シャイフ・ハサン(大ハサン)が宮廷の有力者として台頭し、権勢をふるった。だが、アブー・サイードが力尽くでシャイフ・ハサンの妻を奪って自分の妃にした事から、両者の間に確執が生じた。

1335年にアブー・サイード・ハンが没し、フレグ家の血統が絶えると、それぞれにチンギス・ハーンの血を引く傍系の王族を擁立した有力者同士の抗争が激化するが、中でもイルハン朝の中心地であるアゼルバイジャンタブリーズ地方の草原地帯を巡ってジャライル部の大ハサンと、スルドス[1]の指導者で同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)の間で熾烈な抗争が起こった。

しかし、1338年に行われたジャライル部とスルドス部の直接衝突は新興勢力であるスルドス部の小ハサンの勝利に終わり、ジャライル部の大ハサンはアゼルバイジャンを追われてバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年イラクを中心に自立してアゼルバイジャンのチョバン朝(旧スルドス部)に対抗した。

やがて1357年に、100年来アゼルバイジャン草原の領有権を巡ってイルハン朝と対立関係にあったジョチ・ウルスがアゼルバイジャンに南下し、チョバン朝(旧スルドス部)を破ってアゼルバイジャンを占拠した。大ハサンの後を継いでいた子のシャイフ・ウヴァイスは、これを好機としてアゼルバイジャンに進出、タブリーズを奪還し、イラン西部を制覇して旧イルハン朝の西半を覆うジャライル朝の最大版図を実現した。

自身が優れた文化人であったウヴァイスの宮廷には詩人や音楽家、美術家が集まり、モンゴル帝国時代の東西交流に刺激されてイルハン朝のもとで発展していたイラン・イスラム文化が継承され、その深化が見られた。その一方で、国制は基本的にイルハン朝からモンゴル式のものを受け継ぎ、モンゴル帝国の後裔である遊牧民たちを基幹軍隊とし、遊牧民の慣習法を取り入れた政治が行われた。

しかし、シャイフ・ウヴァイスが1374年に死んだ後には、ジャライル朝は遊牧国家の宿弊である王族内の君主の座を巡る争いが起こり、1382年にウヴァイスの長男のフサイン1世が弟のアフマドによって殺害されるまで内紛が続いた。

さらに、同じ時期には中央アジアにおいてモンゴル系遊牧勢力を統合したティムールがイランへと進出してきていた。アフマドは、東部アナトリアを支配するトルコ系の遊牧部族連合黒羊朝と結んでティムールに対抗したが、圧迫されてタブリーズからバグダードに退却し、さらにティムールに敗れてバグダードを奪われた。フレグによる征服による荒廃から立ち直りつつあったバグダードは、このとき再び大規模な破壊を受けることとなる。アフマドはバグダードから逃れてオスマン朝、次いでマムルーク朝のもとに亡命した。

ティムールの没後、アフマドはイラクに戻って旧勢力を回復し、タブリーズの奪回につとめたが、英主・カラ・ユースフ英語版のもと勢力を急速に拡大していた黒羊朝との戦いに敗れ、捕らえられて処刑された。これにより事実上、ジャライル朝は滅亡した。

アフマドの死後も、ジャライル朝の一族はアゼルバイジャン方面で活動を続けたが、王族間の継承争いをはじめ、15世紀を通じてこの地方を争奪した黒羊朝やティムール朝白羊朝の間で埋没していった。

歴代君主

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  1. タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ(在位:1336年 - 1356年
  2. シャイフ・ウヴァイス1世(在位:1356年 - 1374年) - ハサンの子
  3. ハサン(Hasan)(在位:1374年
  4. フサイン1世(在位:1374年 - 1382年) - ウヴァイス1世の子
  5. バーヤズィード(Bayazid)(在位:1382年1383年
  6. アフマド(在位:1383年 - 1410年) - ウヴァイス1世の子。フサイン1世の弟。
  7. シャー・ワラド(Shah Walad)(在位:1410年 - 1411年) - アフマドの甥。
  8. マフムード(Mahmud)(在位:1411年 - 1415年) - シャー・ワラドの子。
  9. シャイフ・ウヴァイス2世英語版(在位:1415年 - 1421年) - シャー・ワラドの子。
  10. ムハンマド(Mohammed)(在位:1421年 - 1422年) - シャー・ワラドの子。
  11. マフムード(在位:1422年 – 1424年) - 再位
  12. フサイン2世(Husain II)(在位:1424年 - 1432年) - アフマドの孫。

系図

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ハサン・ブズルグ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャイフ・ウヴァイス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハサン
 
フサイン1世
 
バーヤズィード
 
アフマド
 
アリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アッダウラ
 
シャー・ワラド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フサイン2世
 
マフムード
 
シャイフ・ウヴァイス2世
 
ムハンマド
 

脚注

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  1. ^ タイチュウトの部族のひとつ。

参考文献

[編集]
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p. 173