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アメリカのアフガニスタン侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アフガニスタン戦争

開戦と同時にアフガニスタンに向けて発射されるアメリカ海軍トマホークミサイル。これが今後20年に亘って続く事になるアフガニスタン戦争の最初の一発となった。
戦争:アフガニスタン戦争
年月日2001年10月7日[1] ~ 同年12月7日[2]
場所アフガニスタン
結果:米英軍と北部同盟の勝利。戦闘2ヶ月でアフガニスタンのターリバーン政権は崩壊[3]
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
カナダの旗 カナダ
イタリアの旗 イタリア
オーストラリアの旗 オーストラリア
ドイツの旗 ドイツ
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
イランの旗 イラン
アフガニスタン・イスラム国の旗 北部同盟
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 アフガニスタン
アルカーイダの旗 アルカーイダ
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・W・ブッシュ
アメリカ合衆国の旗 ディック・チェイニー
アメリカ合衆国の旗 ドナルド・ラムズフェルド
アメリカ合衆国の旗 ポール・ウォルフォウィッツ
アメリカ合衆国の旗 コリン・パウエル
アメリカ合衆国の旗 コンドリーザ・ライス
アメリカ合衆国の旗 トミー・フランクス英語版
イギリスの旗 トニー・ブレア
カナダの旗 ジャン・クレティエン
イタリアの旗 シルヴィオ・ベルルスコーニ
オーストラリアの旗 ジョン・ハワード
ドイツの旗 ゲアハルト・シュレーダー
ニュージーランドの旗 ヘレン・クラーク
イランの旗 アリー・ハーメネイー
アフガニスタン・イスラム国の旗 ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
アフガニスタン・イスラム国の旗 ラシッド・ドスタム
アフガニスタン・イスラム国の旗 ムハンマド・モハッケク
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 ムハンマド・オマル
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 アブドゥル・カビールアラビア語版
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 ウバイドゥッラー・アフンドアラビア語版
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 アブドゥル・ガニ・バラダル
アフガニスタン・イスラム首長国の旗 アフタル・ムハンマド・マンスール
アルカーイダの旗 ウサーマ・ビン・ラーディン
アルカーイダの旗 ムハンマド・アーティフ 
アルカーイダの旗 アイマン・ザワーヒリー
戦力
約5,000人[4] 詳細不明[5]
損害
戦争全体で約2,500人戦死[6] 戦争全体で約53,000人戦死[7]
戦争全体で民間人46,000人犠牲[7]
アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)

アメリカのアフガニスタン侵攻(アメリカのアフガニスタンしんこう)とは、アメリカ同時多発テロ事件の首謀者である国際テロ組織「アルカーイダ」指導者のウサーマ・ビン・ラーディンを匿っているとして、アメリカアフガニスタンに侵攻し、同国のタリバン政権を崩壊させた事件である。

前史

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アメリカによる政権転覆の企図と紛争の勃発

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冷戦時代の1979年、アメリカがアフガニスタン政府の転覆を企図し、イスラム主義反政府勢力に武器供与と資金提供を行った(サイクロン作戦)ことでアフガニスタン紛争 (1978年-1989年) が勃発。アフガニスタン政府の度重なる救援要請を断っていたソ連は最終的に治安維持への協力のためアフガニスタンに軍を進駐した。ソ連軍は9年間の戦いののちに撤退、イスラム原理主義組織が勢力を伸ばした[8]

湾岸戦争とイスラム原理主義勢力の反米化

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1991年湾岸戦争が勃発すると、アメリカを中心とする多国籍軍クウェートに侵攻したイラクを攻撃するためサウジアラビアに駐留した。しかし、「異教徒の軍隊が我が物顔で振る舞っている」として現地のムスリム達の反感を買ってしまう[9]

アメリカ同時多発テロ事件

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ムスリム達の反米感情が高まった事によって以前にソ連軍と戦ったイスラム過激派組織も反米化し、ウサーマ・ビン・ラーディン率いる国際テロ組織・アルカーイダ2001年9月11日アメリカ同時多発テロを起こし、3,062人が犠牲となった[10]

タリバン政権と北部同盟

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ソ連・アフガン戦争での勝利以来、イスラム原理主義組織は勢力を伸ばし続け、イスラム過激派組織の一つ、タリバン1996年アフガニスタン政権を奪取し、アフガニスタン・イスラム首長国を成立させた。だが、タリバンはアフガンの9割の領土を支配していたが、残りの1割は実効支配できておらず、反タリバン勢力である北部同盟が、その1割を支配していた。

戦争

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開戦前夜

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同時多発テロ事件で自国民を虐殺されたアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュテロとの戦いを宣言し、アルカーイダへの反撃を決定。しかし、アフガニスタンタリバン政権がアルカイダの指導者であるビン・ラディンを匿っていた[11]ため、アメリカ政府はタリバン政権に対してビン・ラディンの引き渡しを要求するが、タリバンはこれを拒否した。

開戦

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タリバンがビン・ラディンの引き渡しを拒否した事を受けて、アメリカは武力行使を決定し、2001年10月7日にアフガニスタンへの空爆、侵攻を開始。イギリスドイツ集団的自衛権を行使して参戦し[12]、以前からタリバンと対立していた北部同盟も終盤でアメリカ側に加勢した。

戦争の経過

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トラボラの戦い

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カブールの陥落後、ウサーマ・ビン・ラーディン含むアルカイダのメンバーたちは、都市部を離れてアフガニスタン東部の都市ジャラーラーバードの近くにあるトラボラという地下要塞に避難した。この要塞はかつて対ソ連時に建立されたものでパキスタンの国境地帯にある。アメリカはビン・ラーディンを捕まえるため、トラボラの戦いを開始した。しかし、アメリカはこの地域に派遣可能な兵力が2000人もあったにもかかわらず、リスクを懸念してトラボラの周辺にごく数部隊しか配置しなかった。代わりに、アフガンの民兵にトラボラでの戦闘を任せた。しかしこの民兵は戦意が低く、アルカイダとの闘いに積極的に取り組まなかったため、ビン・ラーディンは国境を越えてパキスタンに逃げることができた。ピーター・バーゲンによると、最初からアメリカが全兵力を投入して、トラボラを包囲していれば、ビン・ラーディンを捕まえることができたと考えられる[13][14]

その後

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タリバン政権は崩壊したものの、政権を追われたタリバンは各地でゲリラ戦を展開し、紛争は泥沼化した。その後も紛争は終わらず、20年後の2021年に米軍が完全撤退するとタリバンが大攻勢を仕掛け、政権を奪還[15]アフガン戦争はタリバンの勝利に終わった。

脚注

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  1. ^ 米、アフガン攻撃を開始 タリバーン防空施設を空爆”. 朝日新聞 (2001年10月8日). 2023年2月21日閲覧。
  2. ^ タリバーン全面投降、組織壊滅へ”. 朝日新聞 (2001年12月7日). 2023年2月21日閲覧。
  3. ^ 『アフガニスタン―戦乱の現代史』渡辺光一、2003年3月20日、202-204頁。 
  4. ^ アフガニスタン概況”. 外務省 (2003年2月20日). 2023年2月21日閲覧。
  5. ^ アフガニスタン”. 外務省 (2001年4月2日). 2023年2月21日閲覧。
  6. ^ アフガニスタン戦争”. 日本経済新聞 (2021年10月1日). 2023年2月21日閲覧。
  7. ^ a b 20年間のアフガン戦争で市民4万6000人が死亡…米軍の空爆強化で巻き添えや誤爆増加、今後も犠牲拡大の懸念”. 東京新聞 (2021年9月29日). 2023年2月21日閲覧。
  8. ^ 出典”. 東洋経済 (2021年8月20日). 2021年11月6日閲覧。
  9. ^ 出典”. NHK (2021年3月24日). 2021年11月6日閲覧。
  10. ^ 出典”. 外務省 (2002年5月). 2021年11月6日閲覧。
  11. ^ 出典”. 公安調査庁. 2021年11月6日閲覧。
  12. ^ 出典”. 小林よしのり (2015年7月21日). 2021年11月6日閲覧。
  13. ^ マルキャシアン, カーター (2021) (英語). The American War in Afghanistan: A History. オックスフォード大学出版局. pp. 76-78. ISBN 978-0-19-755077-9. https://books.google.com/books?id=VPQuEAAAQBAJ 
  14. ^ バーゲン, ピーター (2011年6月28日) (英語). The Longest War: The Enduring Conflict between America and Al-Qaeda (Reprint ed.). Free Press. pp. 71-82. ISBN 978-0-7432-7894-2 
  15. ^ 出典”. 日本テレビ (2021年8月16日). 2021年11月6日閲覧。

関連項目

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