アルス・ボラト
アルス・ボラト(モンゴル語: Арсболд、中国語: 阿爾蘇博羅特、1487年 - ?[1])とは、モンゴルのハーンであるバト・モンケ(ダヤン・ハーン)の息子の一人。アルス・ボラト・メルゲン・ホンタイジとも記され、7トゥメト(Doloγan Tümed)を相続した。明代の漢文史料での表記は「我折黄台吉」。
概要
[編集]ダヤン・ハーンとその正妻マンドフイ・ハトンの間の息子として生まれた。ダヤン・ハーンの四男と見られ、『アルタン・トプチ』ではバルス・ボラトと双子で生まれたとも記される[2]。
多くの史料ではダヤン・ハーンの死後、その後継者とされたボディ・アラク(ダヤン・ハーンの長子トロ・ボラトの息子)が幼年であることを理由にバルス・ボラトがハーン位を簒奪したことが記されているが、一部の史料ではアルス・ボラトこそが簒奪者であると記されている。『恒河の流れ』、『アルタン・クルドゥン』、『ボロル・エリケ』といったモンゴル語史料はバルス・ボラトが一時ハーン位に即いたのはダヤン・ハーンの遺言に基づいた合法的な行為であり、その死後ハーン位を得ようとしたアルス・ボラトに諸侯が反発し、改めてボディ・アラクがハーンとなったと記す。ただ、これらの史料は比較的後代に書かれたものが多いため、その信憑性については疑問視されている[3]。
アルス・ボラトはダヤン・ハーンより7トゥメト(ドローン・トゥメト)を分封されている。7トゥメトはマルコルギス・ハーンを弑逆したドガラン・タイジの所属する部として史書に現れ、後にマンドゥールン・ハーンがドガラン・タイジを殺して7トゥメトを征服した。後に7トゥメトはアルタン・ハーンの勢力下に入ったようであるが、「7トゥメト」自体はアルス・ボラトの子孫が領有し続けた[4]。
子孫
[編集]- ブジゲル・タイジ(不只克児台吉) - アルス・ボラトの長男
- ダユン・ホンタイジ(歹稚黄台吉) - ブジゲル・タイジの長男
- メルゲン・タイジ(麦力艮台吉) - ブジゲル・タイジの次男
- ジョリクト・タイジ(着力兎歹成台吉) - ブジゲル・タイジの三男
- クゥドゥン・フルチ・ノヤン(火落赤台吉) - ブジゲル・タイジの四男
- オヌン・タイジ(五乎嚢台吉) - アルス・ボラトの次男
- ボルグチン・タイジ(不禄慎台吉) - オヌン・タイジの長男
- ケチェグゥ・センゲ・タイジ(克籌台吉) - オヌン・タイジの次男
脚注
[編集]- ^ 『蒙古源流』の記載に拠る(岡田2004,239頁)
- ^ モンゴル語史料の記述に従えば、マンドフイ・ハトンは3組もしくは4組の双子を続けて出産したことになるため、双子で生まれたというのは疑問視されている(森川1988,2頁)
- ^ 森川1988,13-16頁
- ^ 漢文史料では「多羅土悶(ドローン・トゥメト)」がアルタン・ハーンの領有する「営」の一つとして挙げられている。一方で、我折黄台吉(アルス・ボラト)の子孫の「営名」も「多羅土蛮(ドローン・トゥメト)」と記されている(森川1977,532頁)
- ^ 井上2002,554-555頁
参考文献
[編集]- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 森川哲雄「トゥメト・十二オトク考」『江上波夫教授古稀記念論集 歴史篇』山川出版社、1977年
- 森川哲雄「Barsu boladの事蹟」『歴史学・地理学年報』12号、1988年
- 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年