コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アルフレッド・イーリー・ビーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルフレッド・イーリー・ビーチ(Alfred Ely Beach,1826-1896)はアメリカ合衆国の実業家、発明家。科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンの出版やニューヨーク初の空気圧地下鉄の考案などで知られる。

アルフレッド・イーリー・ビーチ
Alfred Ely Beach
アルフレッド E・ビーチ(44歳の頃)
生誕 (1826-09-01) 1826年9月1日
ニュージャージー州スプリングフィールド
死没 (1896-01-01) 1896年1月1日(69歳没)
ニューヨーク市
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
子供 フレデリック・コンバース
モーゼス・イエール・ビーチ
業績
勤務先 マン&カンパニー
プロジェクト ビーチ・ニューマチック・トランジット
受賞歴 1853年ニューヨーク万国博覧会 最優秀賞
テンプレートを表示

略歴

[編集]

生い立ち

[編集]
ビーチの生家

1826年、マサチューセッツ州スプリングフィールドで3人兄弟の末っ子として生まれた。アメリカで最も成功した新聞と言われるザ・サンのオーナーで、ニューヨーク市で最も裕福な市民の1人でもあるモーゼス・イエール・ビーチである。

10代の頃から父親の新聞社で働きながら、19歳で友人と科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」の事業を買い取り出版社の経営を始めた。父親の新聞社を22歳で引き継ぐが、26歳のとき兄に譲渡した[1]

サイエンティフィック・アメリカン

[編集]

1846年、19歳のときに友人のオーソン・ディサイクス・マンと、科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」の事業を買い取った。創刊してわずか10ヶ月で定期購読者は200人足らず、事業の購入金額は1,000ドル弱(現在の20,000ドル)という未だ未成熟の雑誌だったが、順調に売り上げを伸ばしていった。

やがてスペイン語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、日本語、中国語などでも創刊されるほどに成長し、アメリカで最も古くから定期発行されている雑誌となっている。

オーソン D・マン

特許事務所の開設

[編集]
米国特許庁(左)とマン&カンパニー 1851年頃

マンとビーチは雑誌社を始めると同時に、雑誌社の中に「マン&カンパニー」(Munn & Co.)という特許事務所を開業した。雑誌の中で特許の申請方法や法律に関するアドバイスを連載するとたちまち相談客が増え、3,4年後にワシントンD.C.合衆国特許庁の隣りに支店を開設し、ビーチはニューヨークとワシントンD.C.を2週間おきに片道1日半をかけて行き来した。

最盛期には年間3,000件の特許出願を受け付けるまでに成長し、その中にはグラハム・ベルサミュエル・モールスエリアス・ハウ、R・J・ガトリング(ガトリング銃の考案者)、ジョン・エリクソンコーネリアス・ヴァンダービルトジョン・アスター4世などの著名な人物がいた。

少年時代のトーマス・エジソンはサイエンティフィック・アメリカン誌を買うために毎週数マイル離れた店まで歩いたという。1877年、30歳のエジソンはサイエンティフィック・アメリカンのオフィスを訪ね、ビーチの前で初めて「蓄音機」と名付けた発明品を披露した[2]。ビーチは非常に面白がって特許申請に協力し、それ以来エジソンは頻繁にオフィスを訪ねるようになった。

マン&カンパニーが開業した1846年のアメリカの特許出願数は600件程度だったが、40年後には20,000件に増大した。これは彼らが情報を発信し続けた成果であり、アメリカの産業の発展にも貢献した。

発明家としての名声

[編集]

1853年に開催されたニューヨーク万国博覧会に「視覚障害者向けタイプライター」を出展して金賞を受賞し、発明家としても知られるようになった[3]。それまで手作業だった点字をアルファベットと同時に作成することが可能になり、その後100年に渡って同様の機構を持つタイプライターの原型となった。

ニューマチック・トランジット

その10年後、気送管を応用した地下交通システム「ビーチ・ニューマチック・トランジット」を考案し、1870年にブロードウェイに長さ90mのトンネルを建設してデモンストレーション走行を行った。この画期的な発明は多くの人々から称賛されるが、ニューヨーク市を支配するトウィード上院議員による政治的な妨害を受け、さらに追い討ちをかけるように1873年恐慌に見舞われて実用化に至らなかった。

また、このプロジェクトのために「ビーチ・トンネリングシールド」と名付けたトンネル掘削機を開発し、アメリカ初のシールドトンネルを建設した。この掘削機は直径2.7mの鉄製の筒の周囲に18個の油圧シリンダーが取り付けられており、壁を煉瓦で補強すると同時にゆっくりと回転して土を削る。作業員は筒の中にいて安全を確保された。同様の装置はイギリスのジェームズ・グレートヘッドが1864年に特許を取得しているが、ビーチの設計も同じ年だったので実質的に世界初と言える。

トンネリングシールドと作業員

ビーチ・トンネリングシールドは進化し、カナダのグランドトランク鉄道、ミシガン州ポートヒューロンオンタリオ州サーニアを結ぶセントクレア川の下を通るセントクレアトンネル、ニューヨークのノースリバートンネルの工事などにも使われた。

人柄

[編集]

小柄で弱々しい雰囲気の男だったが、規則正しい生活と運動を心掛け滅多に病気にならなかった。休みを取ることはほとんどなく、少しでも無駄な時間を作らないようにと、1週間前から服や食事などを決めておいたという。穏やかな性格ながら一か所に落ち着くことがなく常に複数の仕事を同時に進めていた。唯一の息抜きは音楽とオペラ鑑賞だった[4]

また、敬虔な信仰心と奉仕の精神を持つ人物でもあった。1850年頃に盲目の人たちの役に立とうと、従来のタイプライターと同じように点字の文章を作成できるタイプライターを発明した。

南北戦争中に連邦政府を支援するために結成されたユニオン・リーグ[5]に所属し、リンカーン大統領の政策を支持した。1865年にジョージア州サバンナに奴隷から開放されたアフリカ系アメリカ人に無償で教育をする学校を作ることになったとき、建設費の13,000ドル(現在の27万ドル)を寄付した。学校は彼の名にちなんでビーチ・インスティテュート(Beach Institute African-American Cultural Center)と名付けられ、現在もビーチ・ハイスクールとなって存続している。

ビーチ・インスティテュート(1910年撮影)

彼が考案した地下交通システム「ビーチ・ニューマチック・トランジット」も、馬車や蒸気自動車で溢れかえるニューヨークの悪夢のような交通渋滞から人々を開放したいという思いからだった。3年間のテスト走行の収益は約30万ドル(現在の600万ドル)にもなったが、全てを南北戦争の孤児のための慈善団体に寄付した。

ニューマチック・トランジットが失敗に終わり、すっかり自信を失った彼は発明への意欲も失ってしまった。久しぶりに会った友人たちも以前のような機知に富んだ会話や鋭い観察力がなくなったと語っている。だがこれまで以上に温和になり、特許事務所を訪れる若い発明家たちには優しくアドバイスしたという[6]

死去

[編集]

1896年1月1日に肺炎で亡くなった。69歳だった。ニューヨークタイムズ紙が小さく死亡記事が載っただけでほとんど注目されなかった[7]。父親の出身地であるコネチカット州ストラトフォードユニオン・セメタリーに埋葬された。

現在、BMTシティホール駅にビーチを称える小さな銘板が設置されている[8]

脚注

[編集]

出展

[編集]
  1. ^ Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月26日閲覧。
  2. ^ 春秋”. 日本経済新聞 (2020年10月4日). 2024年12月24日閲覧。
  3. ^ Most, Doug. “Scientific American’s Owner Built the First New York Subway [Excerpt]” (英語). Scientific American. 2024年12月22日閲覧。
  4. ^ Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月27日閲覧。
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ユニオン・リーグ(ゆにおんりーぐ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年12月27日閲覧。
  6. ^ Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月27日閲覧。
  7. ^ Alfred Ely Beach And His Wonderful Pneumatic Underground Railway” (英語). AMERICAN HERITAGE. 2024年12月18日閲覧。
  8. ^ Klaatu Article”. www.klaatu.org. 2024年12月18日閲覧。

関連項目

[編集]