アレッサンドロ・パテルノストロ
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アレッサンドロ・パテルノストロ(Alessandro Paternostro、1852年12月29日 - 1899年3月30日)は、明治時代にお雇い外国人として来日したイタリアの法学者である。
経歴・人物
[編集]エジプトのアレクサンドリアの生まれ。彼の名は、出生地に因んで革命家であった父パウロ・パテルノストロによって名付けられた。1859年に両親とともにイタリアのトスカナに帰る。ピサ大学に入学するも1年でローマ大学に転じ、1874年に卒業する[1]。
その後、パレルモ大学で法学の教鞭を執った。1889年(明治22年)に当時イタリア公使であった徳川篤敬の要請により来日し、1892年(明治25年)に帰国するまで司法省法律顧問のお雇いとなった。法務官長官であった井上毅と共に条約改正関係の仕事に携わった。また、1891年(明治24年)に発生した大津事件の事件解決に携わるなど、日本における外交的措置を向上させた。
翌年イタリアに帰国し、居住地のローマで死去した[1]。