アンドレア・デル・サルト
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アンドレア・デル・サルト Andrea del Sarto | |
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自画像 | |
生誕 |
1486年7月16日 フィレンツェ |
死没 |
1530年9月29日 フィレンツェ |
アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486年7月16日 - 1530年9月29日)は、ルネサンス期のイタリアの画家、金細工師。
概要
[編集]本名はアンドレア・ダニョーロ・ディ・フランチェスコ(Andrea d'Agnolo di Francesco)[1] 。イタリアのゴシック期、ルネサンス期の画家には、もっぱら通称で呼ばれる者が多いが、彼もその1人で、「アンドレア・デル・サルト」は「仕立て屋のアンドレア」の意である[2]。ミケランジェロやラファエロらがローマで華々しく活躍していたのと同じ頃、フィレンツェの美術の伝統を守っていた画家である。
1486年、フィレンツェに生まれ、徒弟時代はフィレンツェ派の巨匠の一人であるピエロ・ディ・コジモに師事する。1518年から翌年にかけてフランス王フランソワ1世に招かれ、フォンテーヌブローへ赴いた。代表作である『ハルピュイアの聖母』には、安定した三角形構図(中央の聖母の頭部と、両脇の聖人の頭部を結んだ線が三角形をなす)、甘美な色彩、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見られるスフマート(もやのかかったように表す描法/霧状効果)技法などの、アンドレアの画風の特色が見られる。アンドレアの弟子からはポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノなど、次世代のマニエリスム絵画を担う画家が出ている。
代表作
[編集]- 『聖フィリッポの死』(1510年)(「聖フィリッポ・ベニッツィの生涯」の連作、フィレンツェ、サンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂前庭回廊)
- 『少年としての洗礼者聖ヨハネ』(フィレンツェ、パラティーナ美術館)
- 『聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ』(1514年)(ローマ、ボルゲーゼ美術館)
- 『ハルピュイアの聖母』(1517年)(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)
- 『若い男性の肖像』(1517-1518年)(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
- 『パッセリーニの聖母被昇天』(1526年)(フィレンツェ、パラティーナ美術館)
- 『階段の聖母』 (1522-1523年)(マドリード、プラド美術館)
- 『聖家族と幼児洗礼者聖ヨハネ』(1530年頃)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
脚注
[編集]- ^ Nesi, Alessandro. “Ser Spillo: Fratello di Andrea del Sarto”. Maniera 2016: 2 .
- ^ Shearman, John (1965). Andrea del Sarto. Oxford
作品解説
[編集]- 『アンドレア・デル・サルト.マニエリスムへの流れ』 セレーナ・パドヴァーニ
- 宮田克人訳、京都書院〈カンティーニ美術叢書4〉、1995年-大著・絶版