ロッソ・フィオレンティーノ
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ロッソ・フィオレンティーノ Rosso Fiorentino | |
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17世紀末の書籍の肖像画 | |
生誕 |
1495年 フィレンツェ |
死没 |
1495年 パリ |
ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino 、1495年 - 1540年)は、イタリア出身の画家で、ルネサンス(マニエリスム)の美術をフランスに伝える役割を果たした。
来歴
[編集]フィレンツェの生まれた。本名はジョバンニ・バティスタ・ディ・ヤコポ(Giovanni Battista di Jacopo)で通称のロッソは赤毛の髪で生まれたことによる仇名である。はじめ、フィレンツェのアンドレア・デル・サルトの工房で学んだ。同時期にヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1557)も同じ工房で修業していた。
1524年にローマに移り、ローマで働くが、1527年にスペイン王の軍隊によるローマ略奪のためにローマを離れた。北イタリア、ヴェネツィアを経て、1531年にフランス王フランソワ1世に招かれてフランスに赴いた。フランソワ1世を継いだアンリ2世にも仕え、フランチェスコ・プリマティッチオ(1504-1570)とともにフォンテーヌブロー城の改築に関わった。フォンテーヌブロー城の広間の壁に、フレスコ画でフランソワの生涯を描いたものが代表作である。
ロッソの影響で、フランスにフォンテーヌブロー派と呼ばれる画家のグループが生まれ宮廷で活躍した。ロッソは1540年に死去した(ジョルジオ・ヴァザーリは、根拠なく自殺と主張している[1]。
代表作
[編集]作品画像
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『聖母被昇天の日』(1517年)
フィレンツェ、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会 -
『十字架降架』(1521年)
ヴォルテラ美術館 -
『エテロの娘たちを守るモーセ』(1523-1527年)
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
画集解説
[編集]- エリザベッタ・マルケッティ・レッタ、ロベルト・パオロ・チャルディ『ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノ』ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノ 画、甲斐教行 訳、東京書籍〈イタリア・ルネサンスの巨匠たち21 聖な構図と運動の表現〉、1995年11月。ISBN 4-487-76371-1。
脚注
[編集]- ^ “ROSSO FIORENTINO”. Web Gallery of Art, searchable fine arts image database. 2023年5月31日閲覧。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ロッソ・フィオレンティーノに関するカテゴリがあります。