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アンリ1世 (ウー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンリ1世
Henri Ier
ウー伯
在位 1096年 - 1140年

出生 1075年ごろ
死去 1140年7月12日
埋葬 フランス王国、フカルモン修道院
配偶者 マティルド
  エルマントルド
  マルグリット・ド・シュリー
子女 ジャン
ベアトリス
マティルド(マオー)
エティエンヌ
家名 ノルマンディー家
父親 ウー伯ギヨーム2世
母親 ベアトリス・ド・ビュリ
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アンリ1世(Henri Ier, comte d'Eu, 1075年ごろ - 1140年7月12日)は、ウー伯ギヨーム2世とベアトリス・ド・ビュリの息子[1]ウー伯およびヘイスティングス領主(在位:1096年 - 1140年)。父ギヨーム2世は、イングランド王ウィリアム2世に対して反乱を起こし、1096年に死去した。

生涯

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アンリ1世は長男として父ギヨーム2世の跡を継いでウー伯およびヘイスティングス領主となった。1101年、イングランド王位を奪取したばかりのヘンリー1世と対立するノルマンディー公ロベール2世を支持した。ロベール2世はイングランドに侵攻するためにウー伯の領土であるル・トレポールを離れた。オーデリック・ヴィタリスは、1104年にアンリ1世がまだノルマンディーにいたときにイングランド王に降伏したと記している。アンリ1世は1106年のタンシュブレーの戦いにおいてイングランド王ヘンリー1世側として戦い、ロベール2世は捕虜となり、生涯捕らわれの身となった。

アンリ1世は、フランドル伯ボードゥアン7世アンジュー伯フルク5世フランス王ルイ6世からなる同盟にロベール2世の息子ギヨーム・クリトンを引き入れた。1117年、アンリとユーグ・ド・グルネーはヘンリー1世にルーアンで捕らえられた[2]。しかし神妙にふるまう約束と2代サリー伯ウィリアム・ド・ワーレンの要請により、アンリらは釈放された[2]。それにもかかわらず、アンリとユーグはオマール伯エティエンヌと協力して北東部で反乱を主導し、ボードゥアン7世に軍事支援を提供した。反乱は1118年9月にビュール=アン=ブレイの戦いにより終結し、ボードゥアン7世は致命傷を負った。アンリ1世はヘンリー1世の側に戻った[3]

数か月後の1119年8月20日、ノルマン軍とフランス王軍との間でブレミュールの戦いが始まったとき、アンリはヘンリー1世に同行した貴族の1人であった[3]。フランス軍は押し流され、ルイ6世は逃亡してレ=ザンドリの要塞に避難しなければならなかった。翌月、アンリはフランス王とその同盟者であるアモーリー3世・ド・モンフォールによって攻撃されたブルトゥイユの町の防衛に参加し、またしてもフランス軍は敗北した。1124年、アンリの息子の一人であるギヨーム・ド・グランクールがブールテルードでの待ち伏せに加わった。アンリはアモーリー3世・ド・モンフォールを捕らえたが、ヘンリー1世に引き渡すことをせず、脱走することを選んだ。1127年、アンリは再び公然とギヨーム・クリトンを支持した。

アンリは1129年にフカルモンにシトー会修道院を創建し[4]、この修道院は現在はラ・フォンテーヌ・サン・マルタンとして知られている。アンリは、ウーのノートルダム修道院のアウグスティヌス会律修司祭となり、修道生活に入った。アンリの死は、埋葬されているフカルモン修道院の死亡記録に7月12日と記されている。

アンリ1世の死により、息子ジャンがウー伯およびヘイスティングス領主となった。

結婚と子女

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アンリ1世は最初にマティルドと、次にエルマントルドと結婚したが、どちらも出自は不明である。3度目にシュリー伯ギヨームの娘マルグリット・ド・シュリーと結婚した[1]。2人の間には以下の子女が生まれた。

  • ジャン(1170年没) - ウー伯、ヘイスティングス領主[1]
  • ベアトリス
  • マティルド(マオー)(1153年没)[1]
  • エティエンヌ(1140年以降没)[1]

ギヨーム・ド・グランクール(1150年以降没)もアンリ1世の息子であるが、庶子であったと考えられている[注釈 1]

注釈

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  1. ^ Leyserはギヨーム・ド・グランクールをウー伯の息子としている[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e Power 2007, p. 497.
  2. ^ a b Hollister 2001, p. 248.
  3. ^ a b Hollister 2001, p. 249.
  4. ^ Harper-Bill & Harvey 1986, p. 38.
  5. ^ Leyser 1994, p. 111.

参考文献

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  • The Ideals and Practice of Medieval Knighthood. 1. Boydell. (1986) 
  • Hollister, C. Warren (2001). Henry I. Yale University Press 
  • Leyser, Karl (1994). Communications and Power in Medieval Europe: The Gregorian Revolution and Beyond. Bloomsbury Publishing 
  • Power, Daniel (2007). The Norman Frontier in the Twelfth and Early Thirteenth Centuries. Cambridge University Press 
先代
ギヨーム2世
ウー伯
1096年 - 1140年
次代
ジャン