コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アーサー・ホイト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーサー・ホイト
Arthur Hoyt
生年月日 (1874-03-19) 1874年3月19日
没年月日 (1953-01-04) 1953年1月4日(78歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コロラド州ジョージタウン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズ
職業 俳優映画監督
ジャンル 舞台、サイレント映画トーキー
活動期間 1900年代 - 1947年
テンプレートを表示

アーサー・ホイトArthur Hoyt, 1874年6月5日 - 1953年7月4日)は、アメリカ合衆国俳優映画監督である[1]

人物・来歴

[編集]

1874年(明治7年)6月5日コロラド州ジョージタウンに生まれる[1]

当初のキャリアは舞台俳優で、1905年(明治38年)、The Prince Consort に出演、ニューヨークブロードウェイニュー・アムステルダム劇場ニッカーボッカー劇場の舞台に立った記録がある[2]。1914年(大正3年)、タンハウザー・カンパニー製作、ファニー・バーク主演の短篇コメディ The Scrub Lady が、もっとも古い映画出演の記録である[1]

1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社、同社傘下のレックス・モーション・ピクチャー製作、ウィリアム・ウォーシントン監督、ベス・メレディス脚本、フランクリン・ファーナムの初出演・初主演となる短篇映画 The Heart of a Show Girl [3]に助演して、本格的に映画界に進出する[1]。同年、同社傘下に設立されたブルーバード映画では、ウォーシントン監督、ドロシー・クラーク主演の『死の舞踏』、おなじくファーナム主演の『旅の人』や The Man Who Took a Chance, Bringing Home Father, リン・F・レイノルズ監督、マートル・ゴンザレス主演の『独艇の根拠地』に助演した後、1917年(大正6年)、レイノルズ監督の Mr. Opp に主演[1]、3作を除いていずれも日本でも公開された[4]。同年中にユニヴァーサルは退社している[1]

1918年(大正7年)、トライアングル・フィルム・コーポレーションに移籍、E・メイソン・ホッパー監督の『桜子』のキャスティングディレクターを務め、ついで同社で、 High Stakes, Station Content の2作を監督している[1]。同2作で監督業からは撤退し、以降、ユニヴァーサル、フォックス・フィルム(現在の20世紀フォックス)、パラマウント映画等を渡り歩く[1]

1940年(昭和15年)、プレストン・スタージェス監督のデビュー作『偉大なるマッギンティ』に出演、以降、スタージェス組の常連となる[1]第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、スタージェス監督の『ハロルド・ディドルボックの罪』に出演したのを最後に引退した[1]

1953年(昭和28年)7月4日カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで死去した[1]。満78歳没。同市内のパインズ・クレマトリー会堂に眠る[5]

おもなフィルモグラフィ

[編集]

特筆以外すべて出演作である[1]。約300作にものぼる出演作のうち、主演俳優として活躍したサイレント時代を詳述、トーキーとなり、ノンクレジットの脇役・端役が中心となる1930年 - 1947年の時期の約195作[1]は、おもなものに留めた。

1910年代

[編集]

1920年代

[編集]

1930年代

[編集]

1940年代

[編集]

関連事項

[編集]

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Arthur Hoyt, Internet Movie Database (英語), 2010年6月21日閲覧。
  2. ^ Arthur Hoyt, Internet Broadway Database (英語), 2010年6月21日閲覧。
  3. ^ Franklyn Farnum - IMDb(英語), 2010年6月21日閲覧。
  4. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.
  5. ^ Arthur Hoyt, Find A Grave (英語), 2010年6月21日閲覧。

外部リンク

[編集]