イザベラ・フォン・クロイ (1890-1982)
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イザベラ Isabella | |
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クロイ家 | |
1912年頃 | |
全名 |
一覧参照
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出生 |
1890年10月7日 フランス共和国、コンデ=シュル=レスコー、ル・エルミタージュ城 |
死去 |
1982年3月30日(91歳没) 西ドイツ、シュタルンベルク、ロイトシュテッテン城 |
配偶者 | フランツ・フォン・バイエルン |
子女 |
一覧参照
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父親 | カール・アルフレート・フォン・クロイ |
母親 | ルドミラ・フォン・アーレンベルク |
イザベラ・フォン・クロイ=デュルメン(ドイツ語: Isabella Prinzessin von Croÿ-Dülmen, 1890年10月7日 - 1982年3月30日)は、ドイツ=ベルギー系貴族のクロイ家の公女で、バイエルン王子フランツの妃。
フランス語名ではイザベル・ド・クロイ(Isabelle de Croÿ)。
生涯
[編集]クロイ公カール・アルフレートとその妻でアーレンベルク公エンゲルベルト・アウグストの娘であるルドミラ(1870年 - 1953年)の間の第2子、長女として、コンデ=シュル=レスコー(フランス領ノール県ヴァランシエンヌ郡)のル・エルミタージュ城で生まれた[1][2]。ドイツ語全名はイザベラ・アントーニエ・エレオノーレ・ナターリエ・クレメンティーネ(Isabella Antonie Eleonore Natalie Klementine)。
1912年7月8日にバーデン・バイ・ウィーンのヴァイルブルク城において、バイエルン王ルートヴィヒ3世の三男フランツ王子と結婚した。夫との間には2男4女の6人の子女をもうけた。
1982年、シュタルンベルク湖畔のロイトシュテッテン城で没した。
子女
[編集]- ルートヴィヒ・カール・マリア・アントン・ヨーゼフ(1913年 - 2008年) 1950年、従妹のバイエルン王女イルミンガルト[注釈 1]と結婚
- マリア・エリーザベト・フランツィスカ・ヨーゼファ・テレーゼ(1914年 - 2011年) - 1937年、ヴァソウラス系ブラジル皇帝家家長ペドロ・エンリケと結婚
- アーデルグンデ・マリア・アントーニア・エリーザベト・ヨーゼファ(1917年 - 2004年) - 1948年、ズデンコ・フォン・ヘニンヒ=オーキャロル男爵と結婚
- エレオノーレ・テレーゼ・マリア・ヨーゼファ・ガブリエーレ(1918年 - 2009年) - 1948年、ヴァルトブルク=ツァイル=トラウフブルク侯コンスタンティンと結婚
- ドロテア・テレーゼ・マリア・フランツィスカ(1920年 - 2015年[3]) 1938年、ハプスブルク=トスカーナ大公家家長ゴットフリート[注釈 2]と結婚
- ラッゾ・マクシミリアン・ループレヒト(1926年 - 2011年[4]) 1955年、オーストリア=トスカーナ大公女テレーザ(1931年 - )[注釈 3]と結婚
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ フランツの兄の王太子ループレヒトとその妃アントニアの娘。
- ^ ハプスブルク=トスカーナ家の大公ペーター・フェルディナントとその妃マリア・クリスティーナの長男。
- ^ ハプスブルク=トスカーナ家の大公フランツ・ザルヴァトールと大公妃マリー・ヴァレリー夫妻の孫(夫妻の三男テオドール・ザルヴァトールの娘)。
出典
[編集]- ^ Darryl Lundy (22 Jan 2009). “Isabella Prinzessin von Croÿ”. thePeerage.com. 2009年6月16日閲覧。
- ^ Paul Theroff. “CROY”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2009年6月16日閲覧。
- ^ [1]
- ^ Süddeutsche Zeitung: „Wittelsbacher-Prinz gestorben“, 14. September 2011
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、イザベラ・フォン・クロイ (1890-1982)に関するカテゴリがあります。