マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ
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マリー・ヴァレリー Marie Valerie | |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |
マリー・ヴァレリー大公女、1903年 | |
全名 |
一覧参照
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称号 | オーストリア大公女 |
出生 |
1868年4月22日 オーストリア=ハンガリー帝国、ゲデレー、ゲデレー宮殿 |
死去 |
1924年9月6日(56歳没) オーストリア、ウィーン |
配偶者 | フランツ・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ |
父親 | フランツ・ヨーゼフ1世 |
母親 | エリーザベト |
マリー・ヴァレリー・マティルデ・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Marie Valerie Mathilde Amalie von Österreich, 1868年4月22日 - 1924年9月6日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベトの三女。
生涯
[編集]ハンガリーのゲデレー宮殿で生まれた[1]。姉ギーゼラや兄ルドルフ皇太子とは違い、母エリーザベトが手元で育てた子供で、一番愛情を注いだ娘である[1]。ハンガリーでは天の恵みと見なされ、「ゲデレーの王女さま」と呼ばれた。もし男児だった際には、聖王イシュトヴァーン1世にちなみ「シュテファン(イシュトヴァーン)」と名付けるよう決められていたという[1]。
1890年、ハプスブルク家の一族であるオーストリア=トスカーナ大公フランツ・ザルヴァトール(トスカーナ大公国の君主レオポルド2世の孫)とバート・イシュルの教会で結婚式を挙げ、ヴァルゼー城に移住した。2人の間には10人の子供が生まれた。困った人や貧しい村人に援助したり、病院や救貧院を開設したりして、地元の住民から「ヴァルゼーの天使」と呼ばれて慕われた。
母エリーザベトの死後、遺産の5分の2とウィーンにあったヘルメスヴィラを相続したが、1918年のオーストリア革命後にハプスブルク法を受諾し、皇室用財産を真っ先に放棄した。1924年に癌のため、56歳で死去した。
子女
[編集]- エリーザベト・フランツィスカ・マリー・カロリーネ・イグナティア(1892年 - 1930年)
- フランツ・カール・ザルヴァトール・マリー・ヨーゼフ・イグナツ(1893年 - 1918年)
- フーベルト・ザルヴァトール・ライナー・マリア・ヨーゼフ・イグナティウス(1894年 - 1971年)
- ヘートヴィヒ・マリア・インマクラータ・ミヒャエラ・イグナティア(1896年 - 1970年)
- テオドール・ザルヴァトール(1899年 - 1978年)
- ゲルトルート・マリア・ギーゼラ・エリーザベト・イグナティア(1900年 - 1962年)
- マリア・エリーザベト・テレーゼ・フィロメナ・イグナティア(1901年 - 1936年)
- クレメンス・ザルヴァトール・レオポルト・ベネディクト・アントニウス・マリア・ヨーゼフ・イグナティウス(1904年 - 1974年)
- マティルデ・マリア・アントニア・イグナティア(1906年 - 1991年)
- アグネス(1911年)