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インノケンティウス7世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インノケンティウス7世
第204代 ローマ教皇
インノケンティウス7世
教皇就任 1404年10月17日
教皇離任 1406年11月6日
先代 ボニファティウス9世
次代 グレゴリウス12世
個人情報
出生 1336年
ナポリ王国 スルモーナ
死去 1406年11月6日
教皇領 ローマ
その他のインノケンティウス
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インノケンティウス7世(Innocens VII, 1336年 - 1406年11月6日)は、ローマ教皇(在位:1404年 - 1406年)。15世紀初め、教会大分裂の時期の教皇である(アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世)。アブルッツォ地方スルモーナの出身で、本名はコジモ・デ・ミリョラーティ(Cosimo de' Migliorati)。

ボローニャ大学で法律を学んだ後、ペルージャ大学パドヴァ大学で法学教授を務め、教皇ウルバヌス6世の下でローマ教皇庁に入った。1387年ラヴェンナ大司教1389年ボローニャ大司教、同年にボニファティウス9世から枢機卿に任命された。翌1390年は教皇特使にも任命、北イタリアへ派遣された[1][2]

1404年のボニファティウス9世死後のコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出後、ローマで市民が不穏な動きを見せたため、ナポリラディズラーオ1世の働きかけで一旦市民と和睦した。ところが治安を任せた甥のルドヴィーコ・ミリョラーティがローマ市民指導者層11人を殺害したため、1405年にローマ市民が反乱を起こし、教皇はヴィテルボに逃れる。反乱鎮圧後ローマに戻るが、1406年に急死した。ベネディクトゥス13世との交渉は無視したため上手く行かず、分裂終息は次の教皇グレゴリウス12世の代に持ち越された[1][2][3]

脚注

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  1. ^ a b 新カトリック大事典、P563。
  2. ^ a b バンソン、P131。
  3. ^ スチュアート、P182 - P184。

参考文献

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  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第1巻』研究社、1996年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。