イワン・セーロフ
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イワン・セーロフ Иван Серов | |
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生年月日 | 1905年8月13日 |
出生地 | ロシア帝国、ヴォログダ県カドニコフ、アフィムスコエ村 |
没年月日 | 1990年7月1日 (84歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
サイン | |
在任期間 | 1954年3月13日 - 1958年12月8日 |
閣僚会議議長 |
ゲオルギー・マレンコフ ニコライ・ブルガーニン ニキータ・フルシチョフ |
イワン・アレクサンドロヴィチ・セーロフ[1](ロシア語: Иван Александрович Серов、1905年8月13日 - 1990年7月1日)は、ソビエト連邦の軍人、チェキスト。初代ソ連閣僚会議附属国家保安委員会(KGB)議長、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)長。上級大将(後に少将に降格)。ソ連邦英雄(後に剥奪された)。
生涯
[編集]ヴォログダ県アフィムスコエ村の農民の家庭に生まれる。1926年に全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)に入党する。
1939年、フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。1939年2月から内務人民委員部(NKVD)に勤務する。1939年から1941年までウクライナ・ソビエト社会主義共和国内務人民委員となる。
1941年から1945年まで国家保安人民委員第一代理、後に内務人民委員代理となり、第二次世界大戦中はカフカースにおける敵性国民とみなされた住民の強制移住や、ポーランドの抵抗組織である国内軍(AK)への浸透と壊滅を指揮した[2]。
1947年から1953年までソ連内務第一次官。1954年3月から1958年12月まで、KGB議長(初代)を務めた。1958年12月より、ソビエト連邦軍GRU総局長となる。
1962年10月、アメリカ合衆国のCIAとイギリスのMI6のためにスパイ行為を働いていたGRU大佐のオレグ・ペンコフスキーが逮捕された。1963年1月、セーロフは、その責任を問われてGRU総局長から解任された。同年3月、ソ連邦英雄の称号とレーニン勲章を剥奪され、少将に降格されたうえに予備役に編入された。
1990年、モスクワで死去した。
関連項目
[編集]脚注
[編集]公職 | ||
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先代 (創設) |
ソビエト連邦 国家保安委員会議長 初代:1954年 - 1958年 |
次代 アレクサンドル・シェレーピン |