イヴァン・マルィギン
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イヴァン・ヴァシリエヴィチ・マルィギン Иван Васильевич Малыгин | |
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生年 | 1887年2月3日 |
生地 | ロシア帝国ウラジーミル県ゴロホヴェツ郡マルコヴォ |
没年 | 1918年9月20日(31歳没) |
没地 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1] |
思想 | マルクス・レーニン主義 |
活動 | バクー・コミューンの防衛 |
所属 | ボリシェヴィキ |
イヴァン・ヴァシリエヴィチ・マルィギン(ロシア語: Иван Васильевич Малыгин、1887年2月3日 - 1918年9月20日)は、ロシアの革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。
生涯
[編集]1887年2月3日(ユリウス暦1月22日)、ロシア帝国ウラジーミル県マルコヴォで大工の家庭に生まれた[2]。1905年からロシア社会民主労働党に入党し、バクー、ダゲスタン、スタヴロポリの『プラウダ』編集局で活動[2]。1911年に5年間のカフカース追放刑を受けた[3]。1914年から1918年まで軍に入隊し、予備役兵の間で革命宣伝を行った[2]。二月革命後はピャチゴルスク・ソビエトのメンバーとなり、グロズヌイとバクーのボリシェヴィキ党組織でも働き[2]、8月にはペトログラードで開かれた全ロシア・ソビエト会議 (ru) に出席[3]。カフカース軍軍事革命委員会 (en) においてはチフリスの第2地域大会メンバーとなり、1918年1月に軍事革命委員会書記となった[2]。
同年4月にはバクー・ソビエトのテレク代表となり、同時にバクー・コミューンの陸海軍人民委員部員となり[3]、ドイツ帝国とオスマン帝国の双方からバクーを防衛する戦いを指揮した[2]。しかし、7月末にコミューンが崩壊すると逮捕され、他のコミューン成員らとともに9月20日に銃殺された[2]。
脚注
[編集]- ^ Бакинские комиссары / Л. С. Шаумян // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
- ^ a b c d e f g Малыгин // Ломбард — Мезитол. — М. : Советская энциклопедия, 1974. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 15).
- ^ a b c МАЛЫГИН // КОШАЛА — МАЛЬТА. — М. : Советская энциклопедия, 1965. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 8).