ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト
ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト(William Kissam Vanderbilt, 1849年12月12日 - 1920年7月22日[1])は、アメリカ合衆国の実業家、馬主。同国屈指の富豪ヴァンダービルト家の相続人の1人で、鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトの孫。
生涯
[編集]ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトとその妻のマリア・ルイーザ・キッサム(1821年 - 1896年)の間の次男としてスタテン島のニュードープに生まれた[2]。1885年に父が死ぬと、5500万ドルの遺産を相続した。1899年に兄のコーネリアス・ヴァンダービルト2世が死ぬと、ヴァンダービルト家の事実上の当主と見なされるようになった。また一族が支配するニューヨーク・セントラル鉄道の経営にも関わっていたが、1903年以後は第一線から身を引いた。
1875年4月20日、アラバマ州モービルの小農園主の娘アルヴァ・アースキン・スミス(1853年 - 1933年)と最初の結婚をした。夫妻の間には長女でイギリス貴族の第9代マールバラ公爵に嫁いだコンスエロ・ヴァンダービルト(1877年 - 1964年)、長男のウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト2世(1878年 - 1944年)、次男のハロルド・スターリング・ヴァンダービルト(1884年 - 1970年)の3人の子女をもうけた。ウィリアムは1895年にアルヴァと離婚し、アルヴァは翌1896年にユダヤ系銀行家のオリヴァー・ベルモントと再婚した。ウィリアムは1903年に銀行家の娘アン・ハリマン(Anne Harriman)と再婚した。アンとの間に子供は無かった。
1879年に興行師P・T・バーナムからマディソン・スクエア・パークを買い取り、興行会場マディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)としてリニューアルさせている[3]。ウィリアムは1895年にアメリカスカップで優勝したヨット「ディフェンダー(Defender)」号の共同所有者であった。
ウィリアムの邸宅として有名なのは、ニューヨーク5番街660番地の本邸(1883年完成)とロードアイランド州ニューポートの夏の別邸マーブル・ハウス、1892年完成)の2つで、いずれも建築家リチャード・モリス・ハントが設計を担当した。
ウィリアムは馬主、競馬場の経営主としての活動でも知られる。最初の妻アルヴァと離婚後、ウィリアムはフランスのバス=ノルマンディー地方ドーヴィル郊外に城を建てて移り住み、所領にケスネー牧場を設立して競走馬の飼育を始めた。ウィリアムが牧場で飼育させた多くの競走馬は、クリテリウムドサンクルー、ジャン・リュック・ラガルデール賞、パリ大賞典、フォレ賞、ジョッケクルブ賞、ジャンプラ賞、モルニ賞、ロベールパパン賞、ロワイヤルオーク賞などの大会で優勝を果たした。
1920年にパリで死去した。遺骸はヴァンダービルト家代々が眠るスタテン島のモラヴィア共同墓地(Moravian Cemetery)に葬られた。第2次世界大戦中、アメリカ海軍はリバティ船の1つに「ウィリアム・K・ヴァンダービルト(SS William K. Vanderbilt)」の名前を冠した。
脚注
[編集]- ^ “William Kissam Vanderbilt”. Long Island University. October 15, 2009閲覧。
- ^ William Kissam Vanderbilt, I Find a Grave
- ^ http://hockey.ballparks.com/NHL/NewYorkRangers/1stoldindex.htm
参考文献
[編集]- Case, Carole - The Right Blood: America's Aristocrats in Thoroughbred Racing (2000) Rutgers University Press ISBN 0-8135-2840-2