ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト

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ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト(Harold Stirling Vanderbilt, 1884年7月6日 - 1970年7月4日)は、アメリカ合衆国の鉄道会社の重役、ヨット競技やコントラクトブリッジの優勝者、ヴァンダービルト家の一族。

生い立ち[編集]

ニューヨーク州オークデイルウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトアルヴァ・アースキン・スミスの第三子次男として生まれた。家族や友人達からは「マイク」と呼ばれていた。きょうだいには姉のコンスエロ・ヴァンダービルト、兄のウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト2世がいる。海運業、鉄道事業で成功したコーネリアス・ヴァンダービルトの曾孫にあたり、莫大な富と特権階級のもとに生まれた。幼少時代をヴァンダービルト家の邸宅で過ごし、度々ヨーロッパに旅行し、父所有のヨットで世界中を航海した。

経歴[編集]

家庭教師およびSt. Mark's SchoolHarvard College (AB 1907)、ハーバード・ロー・スクール(1910年卒)などの私立学校で学んだ。その後、一族が実権を握ってきた鉄道業界の中心的企業であり、父が社長を務めるニューヨーク・セントラル鉄道に入社。

1917年3月、アメリカ海軍予備役中尉(junior grade )に任命された。1917年4月9日、現役勤務に召集され、マサチューセッツ州ナンタケットの偵察を行なう哨戒艦艇USS Patrol No. 8 (SP-56)指揮官を命じられた。7月20日、ロードアイランド州ブロック島、11月17日、コネチカット州ニューロンドンの対潜区域の指揮に転任した。1918年7月17日、ヨーロッパのアメリカ海軍部隊に転任し、8月、アイルランドクイーンズタウン駆潜艇Detachment 3 に出向いた。9月21日、中尉に昇進し、1918年11月25日に解散するまでDetachment 3 に所属。1918年12月30日、任務を解かれた[1]

1920年に父が亡くなるとオークデイル(ロングアイランド)にある田舎風邸宅アイドル・アワーや以下に示す鉄道会社の株式などの遺産を相続した。

1944年、兄のウィリアム・キッサム2世が亡くなると、ニューヨーク・セントラル鉄道に実際勤務するヴァンダービルト一族は彼一人となり、1954年まで執行委員会の取締役でありメンバーであり続けた。

航海およびアメリカズ・カップ[編集]

少年の頃から彼はニューヨーク州ロングアイランドのコネコート川岸のアイドル・アワー、ロードアイランド州ニューポートマーブル・ハウスなどヴァンダービルト家の邸宅や、後年には継父オリヴァー・ベルモントが所有するニューポートのベルコート・キャッスルで夏季を過ごした。成人するとヨットへの興味が深まり、1922年から1938年の間にレガッタでキングス・カップで6回、アスター・カップで5回優勝した。1925年、フロリダ州パームビーチにエル・ソラノと呼ぶ自身の豪華な別荘を建設。ちなみにこの邸宅は1980年、ビートルズジョン・レノンに亡くなる直前に購入された。

1930年、アメリカズ・カップでの防衛艇J-class yacht のエンタープライズ号の優勝によりヨット競技での頂点に立った。この時の優勝により、1930年9月15日、彼は『タイム』誌の表紙を飾った。1934年、最初の2レースで勝った強敵イギリスのエンデヴァー号と対峙。しかし彼のレインボー号はその後連続3勝し防衛に成功。1937年、レンジャー号で3度目の防衛を果たし、J-class yacht での最後の防衛となった。没後の1993年、アメリカズ・カップの殿堂に選出された。後年、ニューヨーク・ヨット・クラブの会長となり、アメリカズ・カップの多くの防衛に貢献した。

1935年秋、北アメリカ・ヨット競技連盟(現US SAILING)の会長フィリップ・J・ルーズベルト、ロング・アイランド・サウンドヨット競技協会の会長ヴァン・マール=スミス、およびヘンリー・H・アンダーソンと共にヨット競技のルールについて考察。4名はこれまでのright-of-way ルール改正を検討。6週間集中して検討したが、結局無駄に終わった。詳細ではなく原理であり、これが問題となった。彼らはスタートラインからやり直さなくてはならなかった[2]

1936年、3人の支援を受け彼は改正法を展開させ、これを印刷し、アメリカとイギリス双方で彼が知り得る限りのヨット競技関係者に送付した。これらは実質的には無視される形となったが、1938年の第二版では改良された。彼らが四半世紀かかり展開させたルールが1960年にようやく国際ヨット競技連盟(現国際セイリング連合(ISAF))に受け入れられるまで北アメリカ・ヨット競技連盟の数々の委員会に所属し続けた。

ヴァンダービルト大学[編集]

1873年に曽祖父のコーネリアス・ヴァンダービルトが開校資金を出資したテネシー州ナッシュビルヴァンダービルト大学に多大な興味を持っていた。大学理事会の長期会員であり、1955年から1968年の間、理事会長を務めた。全学生の人種差別撤廃が不和を生じさせ大問題となっていた時、歴史的な制度制定に助力した。1962年、ヴァンダービルト・セイリング・クラブの第一回会議の一部に参加し、最初の船艇となる小型ヨットのペンギン号の購入資金を供給した。ヴァンダービルト大学では彼に敬意を表し彼の名を冠した奨学金制度が続けられ、彼の功績を称えバトリック・ホールの前に銅像が建てられた。

コントラクトブリッジ[編集]

彼はまたカード・ゲームの熱心な愛好家であり、1925年、コントラクトブリッジの得点システムの発展に助力し、オークション・ブリッジの人気を取って代わった。3年後、4人1組で行なわれる全米決勝戦となるヴァンダービルト・トロフィに莫大な資金を提供。1932年と1940年、チームの一員として優勝し、自らトロフィを勝ち取った。ブリッジに関する書籍をいくつか執筆し、最も有名なのは『The Vanderbilt Club 』である。

彼の栄誉は引き続き、以降長年にわたり主要な世界決勝戦で採用され続けるStrong club system を考案。Nottingham ClubNeapolitan ClubBlue ClubPrecision Club などのクラブ・システムはVanderbilt Club の派生であった。Polish ClubUnassuming Club などのクラブ・システムはVienna System (Stern Austrian System、1938年).からの派生であった。

1969年、World Bridge Federation (WBF)は彼を最初の名誉会員に認定。American Contract Bridge League (ACBL)の殿堂は1964年、最初の3名のうちの1人に任命。彼のトロフィは最も権威のあるものの1つとして現存する。

栄誉[編集]

  • WBF 名誉会員 (1969年)
  • ACBL 殿堂 (1964年)
  • ACBL 年間名誉会員 (1941年)
  • ヴェッツラー杯 (1940年)

優勝[編集]

準優勝[編集]

  • North American Bridge Championships (1)
    • Vanderbilt Trophy (1) 1937年

追記[編集]

セイリングの他に彼はパイロットのライセンスも持ち、1938年、Sikorsky S-43Flying Boat を入手。

1930年、パームビーチ市と土地をめぐって議論となった後、南へ数マイル、海から500-フート (150 m)のマナラパンと呼ばれる未開発の土地を購入し、邸宅イーストオーヴァーを建設。1931年、マナラパン市の最初の市長となった。1934年、姉コンスエロが近くのHypoluxo Island に邸宅を建設した[3]

1963年、彼は30年以上前に母により売却されたロードアイランド州ニューポートの夏季用別荘マーブル・ハウスをPreservation Society of Newport County へ認可するため奔走した。彼らの意向によりこの邸宅は博物館となった。

1970年、逝去。彼と妻のガートルード・コンウェイ・ヴァンダービルトはロードアイランド州ポーツマスにあるセント・メアリー聖公会墓地の簡素な平板があるだけの墓に埋葬されている。

カクテルのスターリング・パンチ英語版は彼に敬意を表し名付けられた。

彼所有の鉄道車両であるニューヨーク・セントラル3号は改修され、アムトラックVIA鉄道の後ろに接続する豪華な貸切車両となった。

甥のバークレイ・ハーディング・ウォーバートン3世アメリカ航海訓練協会を創立[4]

系譜[編集]

ハロルド・スターリング・ヴァンダービルトの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. コーネリアス・ヴァンダービルト
 
 
 
 
 
 
 
8. コーネリアス・ヴァンダービルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. フェブ・ハード
 
 
 
 
 
 
 
4. ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ナザニエル・ジョンソン
 
 
 
 
 
 
 
9. ソフィア・ジョンソン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. エリザベス・ハンド
 
 
 
 
 
 
 
2. ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. ピーター・ラトガー・キッサム
 
 
 
 
 
 
 
10. リヴレンド・サミュエル・キッサム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. デボラ・タウンセンド
 
 
 
 
 
 
 
5. マリア・ルイザ・キッサム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. アーチボルド・ハミルトン・アダムス
 
 
 
 
 
 
 
11. マーガレット・ハミルトン・アダムス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. マリア・マッキニー
 
 
 
 
 
 
 
1. ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12. ジョージ・スミス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. ミュレイ・フォーブス・スミス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. デイヴィッド・フォーブス
 
 
 
 
 
 
 
13. デリア・スターリング・フォーブス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. マーガレット・スターリング
 
 
 
 
 
 
 
3. アルヴァ・アースキン・スミス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ロバート・ディシャ
 
 
 
 
 
 
 
14. ロバート・ディシャ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. エレノア・ホィーラー
 
 
 
 
 
 
 
7. フォーブ・アン・ディシャ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. デイヴィッド・シェルビー
 
 
 
 
 
 
 
15. エレノア・シェルビー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. サラ・ブレッソー
 
 
 
 
 
 

参照[編集]

  • "Sailing World Hall of Fame", Sailing World Magazine. 2002年4月24日. Sailing World Magazine
  • Time Magazine. 1930年9月15日.
  • Harold S. Vanderbilt (1931). Enterprise the Story of the Defense of the America's Cup in 1930. Charles Scribner's sons Press 
  • Harold S. Vanderbilt (1939). On the wind's highway: Ranger, Rainbow and racing. Charles Scribner's sons Press 

脚注[編集]

  1. ^ Who Was Who in America, Volume 5, 1969 - 1973
  2. ^ (MacArthur, Robert C., Room at the Mark, Boston, 1991)
  3. ^ Town of Manalapan”. Historical Society of Palm Beach County. 1980年8月18日閲覧。
  4. ^ “Video”. CNN. (1980年8月18日). オリジナルの2012年12月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20121203052415/http://vault.sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1123698/index.htm 

外部リンク[編集]