ウィリアム・プロビー (第5代カリスフォート伯爵)
第5代カリスフォート伯爵ウィリアム・プロビー(英語: William Proby, 5th Earl of Carysfort KP、1836年1月18日 – 1909年9月4日)は、アイルランド貴族。1890年から1909年までウィックロー統監を務めた[1]。
生涯
[編集]第3代カリスフォート伯爵グランヴィル・ルーソン・プロビーとイザベラ・ハワード(Isabella Howard、1836年1月22日没、ヒュー・ハワード閣下の娘)の息子として、1836年1月18日にウィックロー県グレナート(Glenart)で生まれた[2]。イートン・カレッジで教育を受けた後、1855年10月13日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学[3]、1858年にのB.A.の学位を[2]、1859年にM.A.の学位を修得した[3]。
1860年4月11日、シャーロット・メアリー・ヒースコート(Charlotte Mary Heathcote、1830年頃 – 1918年1月13日、ロバート・ブースビー・ヒースコートの娘)と結婚した[4]。
1866年にウィックロー県長官を務め[2]、1872年5月18日に兄グランヴィル・ルーソンが死去するとカリスフォート伯爵位を継承した[2]。1874年8月31日、聖パトリック勲章を授与された[2]。政界でははじめ自由党に属したが、 1886年に自由党から分裂した自由統一党に加入、1890年以降は保守党に所属した[2]。
1883年時点でハンティンドンシャーに3,972エーカーの、ノーサンプトンシャーに2,270エーカーの土地を所有し、これらの土地から年11,050ポンドの収入を得た[2]。アイルランドではウィックロー県に16,674エーカーの、キルデア県に1,748エーカーの、ダブリン県に1,250エーカーの土地を所有し、これらの土地から年20,025ポンドの収入を得た[2]。
1890年7月25日から1909年9月4日までウィックロー統監を務めた[1]。
1909年9月4日にストーク・ポージェスのクリーヴハースト(Clevehurst)で死去、9日にのエルトン(1909年当時はハンティンドンシャーに属する)で埋葬された[2]。後継者がおらず、爵位は全て廃絶した[2]。
出典
[編集]- ^ a b Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lords-Lieutenants (Ireland) 1831-". Institute of Historical Research (英語). 2018年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 72–73.
- ^ a b "Proby, the Hon. William. (PRBY855W)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ "Carysfort, Earl of (I, 1789 - 1909)". 19 November 2012. 2020年10月21日閲覧。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the 5th Earl of Carysfort
- ウィリアム・プロビー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
名誉職 | ||
---|---|---|
先代 ミルタウン伯爵 |
ウィックロー統監 1890年 – 1909年 |
次代 ポーズコート子爵 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 グランヴィル・ルーソン・プロビー |
カリスフォート伯爵 1872年 – 1909年 |
廃絶 |