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グランヴィル・プロビー (第4代カリスフォート伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第4代カリスフォート伯爵グランヴィル・ルーソン・プロビー英語: Granville Leveson Proby, 4th Earl of Carysfort KP PC1825年9月14日1872年5月18日)は、アイルランド貴族イギリスの政治家。自由党所属[1]

生涯

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第3代カリスフォート伯爵グランヴィル・ルーソン・プロビー英語版とイザベラ・ハワード(Isabella Howard、1836年1月22日没、ヒュー・ハワード閣下の娘)の次男(長男ジョン・ジョシュアは1823年4月3日に生まれ、1858年11月19日に生涯未婚のまま死去)として、1825年9月14日にウィックロー県ブッシー・パーク(Bushy Park)で生まれた[1]

1851年に第74歩兵連隊英語版の大尉になった[1]

1858年から1868年までウィックロー選挙区英語版の代表として自由党所属の庶民院議員を務め[1]、1859年6月23日に王室監査官英語版に任命され[2]、同年7月6日に枢密顧問官に任命された[3]。その後、1866年7月10日に王室監査官から辞任した[4]。1869年6月2日、聖パトリック勲章を授与された[1]

1868年11月3日に父が死去すると、カリスフォート伯爵位を継承した[1]

1872年5月18日にフィレンツェのホテルで死去、弟ウィリアムが爵位を継承した[1]

家族

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1853年7月19日、オーガスタ・マリア・ヘア(Augusta Maria Hare、1832年5月31日 – 1881年3月24日、第2代リストーエル伯爵ウィリアム・ヘア英語版の娘)と結婚した[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 72–73.
  2. ^ "No. 22280". The London Gazette (英語). 28 June 1859. p. 2513.
  3. ^ "No. 22283". The London Gazette (英語). 8 July 1859. p. 2628.
  4. ^ "No. 23137". The London Gazette (英語). 13 July 1866. p. 3984.

外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ミルトン子爵英語版
ウィリアム・ウェントワース・フィッツウィリアム・ディック英語版
庶民院議員(ウィックロー選挙区英語版選出)
1858年 – 1868年
同職:ウィリアム・ウェントワース・フィッツウィリアム・ディック英語版
次代
ヘンリー・ウェントワース=フィッツウィリアム閣下英語版
ウィリアム・ウェントワース・フィッツウィリアム・ディック英語版
公職
先代
ジョージ・ウェルド=フォレスター閣下
王室監査官英語版
1859年 – 1866年
次代
ロイストン子爵英語版
アイルランドの爵位
先代
グランヴィル・ルーソン・プロビー英語版
カリスフォート伯爵
1868年 – 1872年
次代
ウィリアム・プロビー