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ウィリアム・ヘインズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・ヘインズ
William Haines
William Haines
in a 1928 studio publicity shot
本名 Charles William Haines
生年月日 (1900-01-02) 1900年1月2日
没年月日 (1973-12-26) 1973年12月26日(73歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ヴァージニア州
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
身長 6' (1.83 m)
職業 俳優、インテリア・デザイナー
活動期間 1922-1935
配偶者 (パートナー) ジェームズ・シールズ (1926–1973)
公式サイト http://www.williamhaines.com/
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ウィリアム・ヘインズ(William Haines, 1900年1月2日 - 1973年12月26日)は、アメリカ合衆国俳優、インテリア・デザイナーである。ウィリアム(William)の愛称であるビリー(Billy)を使用して、ビリー・ヘインズ(Billy Haines)と表記される場合がある[1]。また、後にパートナーとなるジェームズ・シールズ(James Shields)も、同じ理由で、ジミー・シールズ(Jimmie Shields)と表記される場合がある[2]

1922年に、ヘインズはタレント・スカウトに見出されて、後に統合されてMGMとなるゴールドウィン・ピクチャーズと契約を結んだ。そしてコロンビア ピクチャーズに貸し出され、そこで出演した1924年の『深夜の特急』で評判になった。しかし、 "wisecracking"(当意即妙で気の利いた言葉を使う)のイメージを、スクリーンに定着させたのは、MGMに戻って出演した1926年『大学のブラウン』で、トム・ブラウンの役を演じてからであった。

1920年代のヘインズは、出演した映画が成功した俳優として、興行収入の上位リストに顔を出していた。

同性愛者であることを否定するように、という指示を拒否して、1935年に俳優としてのキャリアを終えた。その後、ハリウッドの友人たちの支援と、パートナーであるジミー・シールズの協力を得て、インテリア・デザインのビジネスを成功させた。

ヘインズは、1973年12月に73歳で、肺ガンで亡くなった。

経歴

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初期の経歴 

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ヘインズは1900年1月2日にヴァージニア州のストーントンで、葉巻製造業のジョージ・アダム・ヘインズとローラ・ヴァージニア夫妻の、3番目の子供として出生した(ヘインズは後日、誕生日は1月1日だとクレームを入れている)[3]。上には夭折した2人の子供達がいて[4]、下には、1902年生まれのリリアン、1907年生まれのアン、1908年生まれのジョージJr.[5]と1917年生まれのヘンリーがいる[6]

ヘインズは8歳で、聖歌隊員として歌ったことのある、ストーントンのトリニティ聖公会教会で洗礼を受けた[7]。幼い頃からステージや映画に魅了され、地元のシアターで、初期のサイレント映画を見ている少年であった。

14歳のときに、当時のボーイ・フレンドと共に家出をして、リッチモンドに到着したが、そこを経由して、道徳的に評判のよくなかったホープウェルに移り住んだ[8][9]。2人は週給50ドルで、デュポンの工場でニトロセルロースを製造する仕事をしていた。そして、収入を補うために、売春の斡旋としての役割もあったダンス・ホールをオープンした[10]

両親はヘインズの失踪に狂ったようになって、警察の協力を得て、ホープウェルまで追って来たものの、ヘインズは彼らと一緒に帰ろうとはせず、ホープウェルに残って、最終的に実家のための金銭の援助をするようになった。ヘインズは1915年の大火災で街のほとんどが焼失するまで、ホープウェルに留まっていたが、その後はニュー・ヨークに引っ越していった。当時のボーイ・フレンドと一緒だったかは、不明である[11]

葉巻製造業が経営破綻して、父が精神的に追い詰められていたため、父と一家は1916年にリッチモンドに引っ越した。ヘインズは1917年に、ニュー・ヨークからリッチモンドに戻って、父に代わって一家を経済的に支えた[6]

父の健康が回復して、定職につく目処がついたため、ヘインズは1919年に再びニュー・ヨークに出て、当時勢いのあったグリニッジ・ヴィレッジのゲイ・コミュニティーに自分の居場所を見出した[12]。ヴァラエティーに富んだ仕事をこなして、モデルをする前には、一時的に老婦人の経済援助を受ける暮らしをしていたこともあった[13]

ゴールドウィン・ピクチャーズのタレント・スカウトをしていたビジュー・フェルナンデスは、『New Faces of 1922』のコンテストでヘインズを見出して、ヘインズとゴールドウィン・ピクチャーズのスタジオは週給40ドルで専属契約を交わした。1922年3月に、コンテストの優勝者エレノア・ボードマンと共に、ヘインズはハリウッドに到着した[14]

俳優としてのキャリア

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キャリアはごくひっそりと始まって、最初の大きな役は1923年の『Three Wise Fools』のゴードン役であった。評判がよかったのでゴールドウィン・ピクチャーズは、新しいスターとして扱い始めたが、ヘインズは小さな、それほど重要ではない役での出演を続けた。1923年に『悍馬宙を飛ぶ』でフォックス・フィルムに貸し出された後は、今度はコロンビア映画に貸し出されて、5本の映画に出演した。その内の1本、『深夜の特急』に出演したジャック役が絶賛されたため、コロンビア映画はヘインズの移籍を申し出たものの、1924年に3社の統合によりMGMとなったスタジオは、これを拒否したので、ヘインズはその後もMGM作品への出演を続けた。

ヘインズは1926年に、ジャック・ピックフォードとメアリー・ブライアンと共に出演した『大学のブラウン』で、最初の大きな成功を収めた。このブラウンの役で、最後は謙虚になったものの、それまでは尊大な振る舞いをする若者を演じて、ヘインズのスクリーンイメージを固定化させることとなった。 そしてそのイメージは、その後数年間にわたって繰り返される、ヘインズ特有のレパートリーとなった。

1926年に、ニュー・ヨークに立ち寄った際に、ヘインズは路上で当時21歳だったジェームズ・シールズと出会い、声をかけて2人はカップルになった。ヘインズは、自分が余分に働くことで、今後の2人の生活を保障して、シールズがL.A.に引っ越すことを納得させた。 2人は一緒に暮らし始めて、周りからはパートナー同士と見なされた[15][16]

1925年のメアリー・ピックフォードと競演した『アンニー可愛や』や、 1928年のマリオン・デイヴィスと共演した『活動役者』で興行的に成功した。ヘインズは1928年から1932年にかけてボックス・オフィスのトップ5に入っていた人気スターで、1928年の、一部トーキーである『侠盗ヴァレンタイン』での、音声への対応にも成功した。ヘインズの声は、強く太くて、変なアクセントもなかったので、トーキーへの移行にうってつけの俳優とみなされていた[16]。ヘインズの、最初の全編トーキーへの出演となった、『エロチック艦隊』は翌1929年に公開され、その後も、1930年の映画『世界の与太者』を始めとして、トーキーへの出演が続いた。

1930年の"The Quigley Poll"は、ヘインズを国の興行収入のトップ俳優として位置づけた。

1933年ヘインズは、L.A.のパーシング・スクエアで誘った船員と、YMCA内で逮捕された。ヘインズの全盛期であった5年間は、MGMのようなスタジオに、タブロイド誌のヘインズの記事が運ばれても、誰も何も気にしなかったが、MGMの首脳ルイ・B・メイヤーはヘインズに最終提案をして、偽装結婚("lavender marriage"としても知られている)をするか、シールズとのパートナー関係を選ぶかを選択をさせた[17]。ヘインズはシールズとのパートナー関係の方を選び、最終的に2人は、ほぼ50年間一緒に暮らすこととなった。 メイヤーはその後ヘインズを解雇し、契約を終了した。

ヘインズは"Poverty Row"スタジオで、いくつかのマイナー映画に出演した後、俳優業から引退した。最後の映画出演は、1934年の"Mascit Picttures"での、『Young and Beautiful』と『The Marines Are Coming』であった。

俳優業に戻ったことはなかったが、映画にかかわる仕事は、引き続き受けていた。1950年のサンセット大通りで、ヘインズは俳優としてカメオ出演のシーンを撮影したが、後日出演を辞退した。 後に「映画から離れているので、映画の一部分になるのはとても楽しい気分にさせてくれます。なぜなら、友人達がいて、スタジオの醜い面を見ずに、友人達の素晴らしい面を見ることが出来るからです」と語っている[18]

インテリア・デザイナーとしてのキャリア

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ヘインズとシールズは、インテリア・デザイナーやアンティーク・ディーラーとしての別のキャリアも成功させた。最初の顧客は友人達で、ジョーン・クロフォードグロリア・スワンソンキャロル・ロンバードマリオン・デイヴィスジョージ・キューカーなどの人々に囲まれていた。

ヘインズとシールズに対して、隣人の子供に対する虐待での告発は、根拠がなく証拠が欠如していたために、その告発は却下された[19]。そして、1936年6月、白人至上主義の約100人の人々が 当時、マンハッタンビーチのエル・ポルトに暮らしていた、ヘインズとシールズの2人を引きずり出だして、襲撃したため、2人は人生にかなりのダメージを受けた。この事件は当時広く報道されていたが、マンハッタン・ビーチの警察は、2人に対する襲撃者達の告訴を決して行わなかった[3][20]

2人は最終的にブレントウッドのハリウッド・コミュニティに定住し、ヘインズが、第二次世界大戦アメリカ軍に仕えた短時間の中断を除いては、1970年代初めに引退するまで、事業は順調だった[21]ロナルド・レーガンカリフォルニア州知事就任時には、顧客にロナルド・レーガンとナンシー夫妻、そしてベッツィ・ブルーミングデールが含まれていた。また、カリフォルニア州パームスプリングスの住宅の改装を行い、ヘインズと仕事上のパートナーのテッド・グラバーは、近くのランチョ・ミラージュのサニーランズにある、アルターとレオノーレのアネンバーグ不動産の住宅のインテリアをデザインした[22]

晩年の生活

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ヘインズとシールズは、ヘインズが亡くなるまで一緒に暮らしていた。ジョーン・クロフォードは、2人を、「ハリウッドで最も幸せなカップル」と表現した[23]

ヘインズは、1973年12月に73歳で、カリフォルニア州サンタ・モニカで、肺ガンで亡くなった[24]。その数ヵ月後にシールズは睡眠薬のオーヴァードーズを行ってヘインズの後を追った。遺書には「1926年から一緒にいた、ウィリアム・ヘインズを失った自分を、慰めようと努力してくれた皆さんに『さようなら』を言います。この後、1人では何をするのも不可能です。自分はとても寂しいです」と書かれていた[25]。2人はサンタ・モニカのウッドローン墓地に並んで埋葬されている[26]

業績

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映画産業への貢献に対して、ハリウッド・ブルヴァードのハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム7012にウィリアム・ヘインズの名前が残されている[27]

ウィリアム・ヘインズ・デザインはウェスト・ハリウッドに本社があり、ニュー・ヨークデンヴァーそしてダラスにショールームがある[28]

映画での出演作品

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公開年 題名
原題
役名
原表記
備考
1922 Brothers Under the Skin Bit part Uncredited
Goldwyn Pictures Corporation
1923 Lost and Found on a South Sea Island Extra Goldwyn Pictures Corporation
1923 Souls for Sale Pinkey Goldwyn Pictures Corporation
1923 Three Wise Fools Gordon Goldwyn Pictures Corporation
1924 Three Weeks Curate Goldwyn Pictures Corporation
1924 True As Steel Gilbert Morse Goldwyn Pictures Corporation
1924 深夜の特急
The Midnight Express
ジャック・オークス
Jack Oakes
Columbia Pictures Corporation
1924 ゲイティーの踊子
The Gaiety Girl
オーウェン・チューダー
Owen Tudor St. John
Universal Pictures
1924 青春の美酒
Wine of Youth
ハル・マーティン
Hal Martin
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1924 歓楽の唇
Circe the Enchantress
ウィリアム・クレイグ
William Craig
Lost film
Tiffany Productions
1924 So This Is Marriage? - Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1924 半獣半人の妻
The Wife of the Centaur
エドワード・コンヴァース
Edward Converse
Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1924 悍馬宙を飛ぶ
The Desert Outlaw
トム・ハロウェイ
Tom Halloway
Fox Film Corporation
1925 MGM Studio Tour Himself Short subject made by Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1925 A Fool and His Money John Smart Columbia Pictures Corporation
1925 Who Cares Martin 現存:米国議会図書館
(Extant;Library of Congress)
Columbia Pictures Corporation
1925 結婚破綻
The Denial
過去の恋人
Lover in flashback
一部紛失(Partially lost film)
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1925 モダン結婚
A Slave of Fashion
ディック・ウェイン
Dick Wayne
Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1925 Fighting the Flames Horatio Manly, Jr. Lost film
Columbia Pictures Corporation
1925 故郷の土
The Tower of Lies
オーガスト
August
Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1925 アンニー可愛や
Little Annie Rooney
ジョー・ケリー
Joe Kelley
Mary Pickford Company
1925 三人の踊子
Sally, Irene and Mary
ジミー・ダンガン
Jimmy Dungan
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1926 マイク
Mike
ハーラン
Harlan
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1926 The Thrill Hunter Peter J. Smith Waldorf Pictures Corporation
1926 囁きの小径
Memory Lane
ジョー・フィールド
Joe Field
Louis B. Mayer Productions
1926 大学のブラウン
Brown of Harvard
トム・ブラウン
Tom Brown
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1926 Lovey Mary Billy Wiggs Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1926 英雄時代
Tell It to the Marines
バーンズ
Private "Skeet" Burns
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1927 A Little Journey George Manning Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1927 滑れケリー
Slide, Kelly, Slide
ジム・ケリー
Jim Kelly (fictionalized version of Mike "King" Kelly)
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1927 Spring Fever Jack Kelly Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 West Point Brice Wayne Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 The Smart Set Tommy Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 世界に告ぐ
Telling the World
ドン・デイヴィス
Don Davis
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 好いて好かれて
Excess Baggage
エディ・ケーン
Eddie Kane
Lost film
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 活動役者
Show People
ビリー・ブーン
Billy Boone
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1928 侠盗ヴァレンタイン
Alias Jimmy Valentine
ジミー・ヴァレンタイン
Jimmy Valentine
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1929 若殿頑張る
The Duke Steps Out
デューク
Duke
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1929 A Man's Man Mel Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1929 ハリウッド・レヴィユー
The Hollywood Revue of 1929
Himself Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1929 スピードウェイ
Speedway
ビル・ウィップル
Bill Whipple
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1929 エロチック艦隊
Navy Blues
ケリー
Kelly
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1930 盗んだ結婚
The Girl Said No
トム・ウォード
Tom Ward
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1930 キートンのエキストラ
Free and Easy
Himself – A Guest Alternative title: Easy Go
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1930 Estrellados Himself Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1930 世界の与太者
Way Out West
ウィンディ
Windy
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1930 恋愛放送局
Remote Control
ウィリアム・J・ブレナン
William J. Brennan
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1931 裸一貫
A Tailor Made Man
ジョン・ポール・バート
John Paul Bart
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1931 The Stolen Jools Bill Haines (Short)
Masquers Club of Hollywood
1931 ジャスト・ア・ジゴロ
Just a Gigolo
Lord Robert Brummel Art director
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1931 メリケン押切帳
New Adventures of Get Rich Quick Wallingford
ウォリングフォード
Wallingford
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1932 快走艇
Fast Life
サンディ
Sandy
Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1932 Are You Listening? Bill Grimes Metro-Goldwyn-Mayer Studios
1934 Young and Beautiful Robert Preston Set decorator
Mascot Pictures
1934 The Marines Are Coming Lt. William "Wild Bill" Traylor Mascot Pictures
1936 クレイグの妻
Craig's Wife
Production Designer
Columbia Pictures Corporation

関連する出版物と映像作品

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  • Wisecracker: The Life and Times of William Haines, Hollywood's First Openly Gay Star[29]
  • Out of the Closet, Off the Screen: The Life of William Haines[30]
  • William Haines and Hollywood's First Openly Gay Marriage[31]

出典

[編集]
  1. ^ The Talented Mr. Haines”. 2017年12月15日閲覧。
  2. ^ THE HAPPIEST MARRIAGE IN HOLLYWOOD: The Story of William Haines and Jimmy Shields”. 2014年1月17日閲覧。
  3. ^ a b Rosenberg, David A. (February 3, 2002). “Bucking the system”. The Hour: p. D1. https://news.google.com/newspapers?id=MYckAAAAIBAJ&sjid=ZHUFAAAAIBAJ&pg=2003,378047&dq=william+haines+molestation&hl=en January 15, 2013閲覧。 
  4. ^ (Mann 1998, p. 2)
  5. ^ (Mann 1998, p. 8)
  6. ^ a b (Mann 1998, p. 29)
  7. ^ (Mann 1998, p. 9)
  8. ^ (Mann 1998, p. 16)
  9. ^ (Mann 1998, p. 18)
  10. ^ (Mann 1998, pp. 19–20)
  11. ^ (Mann 1998, p. 25)
  12. ^ (Mann 1998, p. 32)
  13. ^ (Mann 1998, p. 43)
  14. ^ (Mann 1998, pp. 48–49)
  15. ^ (Mann 1998, p. 100)
  16. ^ a b Hollywood’s First Gay Marriage”. Oct. 16 2015閲覧。
  17. ^ Remembering Hollywood's First Openly Gay Star—and Marriage”. 2015年10月23日閲覧。
  18. ^ (Golden 2001, p. 48)
  19. ^ (Dennis 2003, pp. 30–31)
  20. ^ “Bill Haines Beaten by Mob at Beach”. Spokane Daily Chronicle: p. 1. (June 2, 1936). https://news.google.com/newspapers?id=yNVXAAAAIBAJ&sjid=DfUDAAAAIBAJ&pg=3351,363807&dq=william+haines+beaten&hl=en January 15, 2013閲覧。 
  21. ^ (Mann 1998, pp. 306–310)
  22. ^ Historic Estate”. The Annenberg Foundation Trust at Sunnylands. 2013年1月3日閲覧。
  23. ^ (Golden 2001, p. 45)
  24. ^ (Prono 2008, p. 117)
  25. ^ (Adrich 2002, p. 235)
  26. ^ Wilson, Scott. Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Persons, 3d ed.: 2 (Kindle Location 19262). McFarland & Company, Inc., Publishers. Kindle Edition.
  27. ^ William Haines - Hollywood Star Walk”. ロサンゼルス・タイムズ. 2017年12月17日閲覧。
  28. ^ William Haines”. 2017年12月17日閲覧。
  29. ^ WISECRACKER: The Life and Times of William Haines, Hollywood's First Openly Gay Star. By William J. Mann . Viking: 444 pp., $29.95”. ロサンゼルス・タイムズ. 2017年12月17日閲覧。
  30. ^ Movie Reviews”. ニューヨーク・タイムズ. 2017年12月17日閲覧。
  31. ^ MGM Stories Part Five: William Haines and Hollywood's First Openly Gay Marriage”. You Must Remember This. 2017年12月17日閲覧。

外部リンク

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