ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)
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ウィリアム・ヘンリー William Henry | |
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初代グロスター・エディンバラ公 初代コンノート伯 | |
在位 | 1764年11月19日 - 1805年8月25日 |
出生 |
1743年11月25日 グレートブリテン王国、ロンドン、レスター・ハウス |
死去 |
1805年8月25日(61歳没) イギリス、ロンドン、グロスター・ハウス |
埋葬 | イギリス、ウィンザー、セント・ジョージ教会 |
配偶者 | マリア・ウォルポール |
子女 |
ソフィア キャロライン ウィリアム・フレデリック |
家名 | ハノーヴァー家 |
父親 | グレートブリテン王太子フレデリック・ルイス |
母親 | オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ |
役職 | 陸軍元帥 |
グロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリー王子(Prince William Henry, Duke of Gloucester and Edinburgh, 1743年11月25日 - 1805年8月25日)は、イギリスの王族である。
略歴
[編集]プリンス・オブ・ウェールズ、フレデリック・ルイスと妃オーガスタ・オブ・サクス=ゴータの三男として、ロンドンで生まれた。陸軍軍人となり、1762年にガーター勲章、1764年には兄ジョージ3世よりグロスター=エディンバラ公位を授かった。1766年、秘密裡に7歳年上のマリア・ウォルポール(イギリス宰相ロバート・ウォルポールの庶系の孫。当時ウォルドグレイヴ伯未亡人)と結婚した。王族と、王族でない庶系の女性(しかも未亡人)との結婚であったことから、周囲に伏せたものである。この行いが、『王族は結婚の際に国王の同意を必要とする』旨を記載した1772年の王室結婚令をジョージ3世が発令させるきっかけとなった。
ウィリアム・ヘンリーはマリアとの間に3子をもうけた。
- ソフィア(1773年 - 1844年)
- キャロライン(1774年 - 1775年) - 生後9ヶ月で天然痘のため夭折
- ウィリアム・フレデリック(1776年 - 1834年) - グロスター=エディンバラ公
また、アルメリア・カーペンターとの間に庶子ルイーザをもうけた。
ウィリアム・ヘンリーは1793年に元帥となった。また、1771年から1805年にかけてダブリン大学学長を務めた[1]。1766年にはフリーメイソンに加入した[2]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ "Former Chancellors 1592 -". Trinity College Dublin (英語). 2020年12月20日閲覧。
- ^ 湯浅慎一 1990, p. 106.
参考文献
[編集]- 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社〈中公新書955〉、1990年。ISBN 978-4121009555。
学職 | ||
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先代 ベッドフォード公爵 |
ダブリン大学学長 1771年 – 1805年 |
次代 カンバーランド=テヴィオットデイル公爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | グロスター=エディンバラ公爵 1764年 – 1805年 |
次代 ウィリアム・フレデリック |