コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ウィリアム・レッグ (第2代ダートマス伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イギリスの政治家
ウィリアム・レッグ
William Legge
ナサニエル・ホーン による肖像(1777年)。
生年月日 (1731-06-20) 1731年6月20日
没年月日 (1801-07-15) 1801年7月15日(70歳没)
死没地 イギリスブラックヒース英語版[1]
出身校 オックスフォード大学
配偶者 フランシス・キャサリン
親族 初代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグ(祖父)
ルイシャム子爵ジョージ・レッグ(父)

在任期間 1765年7月20日 - 1766年8月16日
国王 ジョージ3世

在任期間 1772年8月27日 - 1775年11月10日
国王 ジョージ3世
テンプレートを表示

第2代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグWilliam Legge, 2nd Earl of Dartmouth PC FRS FSA1731年6月20日1801年7月15日)は、アメリカ合衆国の独立前後の時期に、閣僚級の要職を歴任したグレートブリテン王国政治家

出自

[編集]

ルイシャム子爵ジョージ・レッグ(1732年8月29日没)と妻エリザベス(1707年ごろ – 1745年4月21日、第3代準男爵サー・アーサー・ケイ英語版の娘)の息子として、1731年6月20日に生まれ、セント・メリルボーン教区教会英語版で洗礼を受けた[2]。1歳のときに父を失った[2]ウェストミンスター・スクールに学び[1]、1749年1月14日にオックスフォード大学トリニティ・カレッジに入学、1751年3月21日にM.A.、1756年4月28日にD.C.L.英語版の学位を修得した[3][4]。1750年12月15日に父が死去すると、ダートマス伯爵位を継承した[2]

政治経験

[編集]

伯爵となったダートマス卿は、1754年貴族院議員となった[1]1764年には、トーマス・ホーウェイス (Thomas Haweis) の提案を受けて、元奴隷商人のジョン・ニュートンチェスター主教英語版へ推薦し、ニュートンが聖公会聖職者として受け入れられる途を開いた。

1765年7月26日に枢密顧問官に任命され、同年から1766年まで第一商務卿を務めた[2]ノース内閣期には1772年から1775年まで植民地大臣と第一商務卿を務め、1775年11月から1782年3月まで王璽尚書を務めた[2]フォックス=ノース連立内閣では1783年4月から12月まで王室家政長官英語版を務めた[2]

1772年、イギリス領アメリカ北部インディアン関連局長官 (the Superintendent of Northern Indian Affairs in America) であった初代準男爵サー・ウィリアム・ジョンソンへの書簡の中で、ダートマス卿はインディアンとの交易について新たな規則の導入は本国政府として得策ではないことを示唆した。ダートマス卿はジョンソンの主張に理解を示しながらも、どのような提案であれ、新しい規則は植民地側の同意を得られないだろうと述べた。

慈善活動

[編集]

ダートマス卿は、インディアン教育を与え、キリスト教改宗させることを目的としてエリエザー・ウィーロック (Eleazar Wheelock) がコネチカット州レバノン (Lebanon) に設立しようとしていたインディアン慈善学校 (the Indian Charity School) に資金を提供するイングランドの信託財団に多額の寄付をするとともに、その理事として中心的な役割を果たした。後にウィーロックは、ニューハンプシャー州ハノーバーダートマス大学を創設したが、これは、ダートマス卿を讃える形で命名することが、一層の経済的支援につながると期待してのことであった。しかし、ダートマス卿は大学への資金提供は拒んだ。ダートマス卿はロンドンで、孤児などの養育にあたる新たな慈善団体である捨子養育院 (Foundling Hospital) を支援した。ダートマス卿は1755年から、死去するまで、この団体の副会長の地位にあった。有名な画家であるサージョシュア・レノルズは、ダートマス卿の肖像画を作成し、ホスピタルに寄贈した。この肖像画は現在もファウンドリング・ホスピタルが所蔵し、ロンドンの捨て子博物館 (Foundling Museum) に展示されている。

1754年11月7日に王立協会フェローに選出され[5]、同日にロンドン考古協会フェローにも選出された[2]

1801年7月15日にブラックヒース英語版で死去、8月3日にミノリーズ英語版ホーリー・トリニティ教会英語版に埋葬された[2]。長男ジョージが爵位を継承した[2]

家族

[編集]

1755年1月11日、フランシス・キャサリン・ガンター・ニコル(Frances Catherine Gunter Nicoll、1733年ごろ – 1805年2月23日、サー・チャールズ・ガンター・ニコルの娘)と結婚[2]、8男1女をもうけた[6]

サンドウェル・バレー (Sandwell Valley) にあった一家の屋敷サンドウェル・ホール (Sandwell Hall) はフランシスの死後に解体された。

伝記

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c "William Legge, 2nd earl of Dartmouth". Encyclopaedia Britannica (英語). 2013年11月4日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 89–90.
  3. ^ Foster, Joseph (1888–1892). "Legge, William, Viscount Lewisham (1)" . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 3. Oxford: Parker and Co. p. 835. ウィキソースより。
  4. ^ Hopkins, Clare (2005), Trinity: 450 years of an Oxford college community (2007 reprint ed.), Oxford, ISBN 978-0-19-951896-8 
  5. ^ "Legge; William (1731 - 1801); 2nd Earl of Dartmouth". Record (英語). The Royal Society. 2024年8月6日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i Lodge, Edmund, ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. p. 154.
  7. ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 1 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 712.

関連文献

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
初代ヒルズバラ伯爵
第一商務卿
1765年 – 1766年
次代
初代ヒルズバラ伯爵
先代
初代ヒルズバラ伯爵
植民地大臣
1772年 – 1775年
次代
ジョージ・ジャーメイン卿
第一商務卿
1772年 – 1775年
先代
第3代グラフトン公爵
王璽尚書
1775年 – 1782年
次代
第3代グラフトン公爵
先代
第4代ラトランド公爵
王室家政長官英語版
1783年
次代
第3代シャンドス公爵
グレートブリテンの爵位
先代
ウィリアム・レッグ
第2代ダートマス伯爵
1750年 – 1801年
次代
ジョージ・レッグ
第3代ダートマス男爵
(繰上勅書により生前に爵位譲る)

1750年 – 1801年