ウィリアム・A・ホーニング
ウィリアム・A・ホーニング William A. Horning | |||||||||
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本名 | William Allen Horning | ||||||||
生年月日 | 1904年11月9日 | ||||||||
没年月日 | 1959年3月2日(54歳没) | ||||||||
出生地 | アメリカ合衆国 ミズーリ州 | ||||||||
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス | ||||||||
職業 | 美術監督 | ||||||||
活動期間 | 1931年 - 1959年 | ||||||||
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ウィリアム・アレン・ホーニング(William Allen Horning, 1904年11月9日 - 1959年3月2日)は、アメリカ合衆国の美術監督である。アカデミー賞美術賞を2度受賞している[1]。
キャリア
[編集]1931年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)にドラフトマンとして入社し、1936年に同社のスーパーバイジング・アートディレクターであるセドリック・ギボンズのアシスタントとなった[2] 。
1937年に『征服』によりギボンズと共に始めてアカデミー賞美術賞にノミネートされた。その2年後には『オズの魔法使』(1939年)、さらに12年後には『クォ・ヴァディス』(1951年)でノミネートされた。
1956年にギボンズが引退するとホーニングはMGMのスーパーバイジング・アートディレクターとなった。彼がギボンズ抜きで始めてアカデミー賞候補となったのは1957年の『魅惑の巴里』と『愛情の花咲く樹』のときであった。
ホーニングは亡くなる1週間前に『恋の手ほどき』で第31回アカデミー賞美術賞の候補となり、4月に開催された授賞式で死後受賞を果たした。
亡くなった翌年、ホーニングはアルフレッド・ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』とウィリアム・ワイラーの『ベン・ハー』の2作品で第32回アカデミー賞美術賞の死後候補者となった。『ベン・ハー』はホーニングに2度目となるアカデミー賞美術賞をもたらした他、作品賞も獲得した。『ベン・ハー』のプロデューサーであるサム・ジンバリストも撮影中に亡くなっていたために同映画は2人の死後受賞者を出した作品となった。また2019年時点でホーニングは死後に2度アカデミー賞を受賞した唯一の人物である。
受賞とノミネート
[編集]賞 | 年 | 部門 | 作品名 | 結果 |
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アカデミー賞 | 1937[3] | 室内装飾賞 | 征服 | ノミネート |
1939[4] | オズの魔法使 | ノミネート | ||
1951[5] | 美術監督・装置装飾賞 (カラー) | クォ・ヴァディス | ノミネート | |
1957[6] | 美術監督・装置装飾賞 | 魅惑の巴里 | ノミネート | |
愛情の花咲く樹 | ノミネート | |||
1958[7] | 恋の手ほどき | 受賞 | ||
1959[8] | 美術監督・装置装飾賞 (カラー) | ベン・ハー | 受賞 | |
北北西に進路を取れ | ノミネート |
参考文献
[編集]- ^ “IMDb.com: William A. Horning - Awards”. IMDb.com. 2008年12月9日閲覧。
- ^ “Obituaries”. Variety. (March 11, 1959). p. 86 June 23, 2019閲覧。
- ^ “THE 10TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。
- ^ “THE 12TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。
- ^ “THE 24TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。
- ^ “THE 30TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。
- ^ “THE 31ST ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。
- ^ “THE 32ND ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2019年11月3日閲覧。