ウラジーミル・コスチェンコ
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ウラジーミル・ポリエクトヴィッチ・コスチェンコ(ロシア語: Владимир Полиевктович Костенко, ラテン文字転写: Vladimir Polievktovich Kostenko、1881年9月20日-1956年1月14日)は、ロシアの造船技術者。日露戦争当時、戦艦オリョールの建造に従事。完成後は造船技官(補)として同艦に乗り組み遠征航海に参加、日本海海戦で惨敗、舞鶴、京都での捕虜生活を体験する。帰国後、ロシア艦隊敗北の理由を詳細に分析・報告し、高い評価を得た。その後も軍艦・造船の分野で活躍。アレクセイ・ノビコフ=プリボイ著『ツシマ(対馬)(Цусима)』で機関科将校(機関士)ワシーリェフとして多くの場面で登場する。
経歴
[編集]- 1881年9月20日 - ポルタヴァ郡(ウクライナ)ベリーキー・ブジシヤ村に生まれる。父はゼムストヴォの医師ポリエクト・イワノヴィチ・コスチェンコ、母は地主の娘で教師のクズネツォワ。兄弟は弟2人と妹2人。
- 1892年-1900年 - ベルゴロド市のギムナジウムに在学。優等の金メダルで卒業。
- 1900年-1904年 - クロンシュタットの皇帝ニコライ1世海軍技術学校(サンクトペテルブルク海軍大学)造船科に在学。優等の金メダルで卒業。卒業設計-新型軽量高速装甲巡洋艦。
- 1904年-1905年 - 在学当時より建造実習に携わった、戦艦オリョールに造船技官(補)として乗り組みバルチック艦隊の遠征航海に参加、日本海海戦で惨敗。
- 1905年-1906年 - 舞鶴鎮守府海軍病院(現、国立病院機構舞鶴医療センター)、似島検疫所、京都捕虜収容所(本圀寺)で捕虜生活をおくる。
- 1906年 - 戦艦アンドレイ・ペルウォスワニ(インペラートル・パーヴェル1世級)の建造を補佐。
- 1907年 - イングランドで装甲巡洋艦リューリク(II)の建造を監督。聖スタニスラフ勲章(二等)を授与される。
- 1908年から - 海軍大学教授アレクセイ・クリロフ(A・H・クリロフ)の指導の下で仕事を行い、1909年7月から10月までイングランドに派遣。
- 1910年 - 革命運動のためトルベツコイ要塞(サンクトペテルブルク)に投獄され、禁固6年の刑を宣告。
- 1911年12月19日 - アレクセイ・クリロフ とイワン・グリゴローヴィチ(I・K・グリゴローヴィチ)の願いにより、ニコライ二世の恩赦で釈放。
- 1956年1月14日 - サンクトペテルブルクで死去。聖セラフィム墓地に埋葬。
サンクトペテルブルクでの住まい
[編集]参考文献
[編集]- ウラジミール・ポリエクトヴィッチ・コスチェンコ 『もうひとつのツシマ ロシア造船技術将校の証言』 徳力真太郎訳、原書房、2010年、ISBN 978-4-562-04654-6,
- ※『捕われた鷹 バルチック艦隊壊滅記』(原書房、1977年)を改題改版。
- アレクセイ・ノビコフ=プリボイ 『ツシマ<上> バルチック艦隊遠征』 上脇進訳、原書房、2004年、ISBN 4562037865
- アレクセイ・ノビコフ=プリボイ 『ツシマ<下> バルチック艦隊壊滅』 上脇進訳、原書房、2004年、ISBN 4562037873
- コンスタンチン・サルキソフ(Konstantin・O・SARKISOV) 『もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から』 鈴木康雄訳、朝日新聞出版、2009年、ISBN 978-4-02-259951-3
- Russika.Ru( http://www.russika.ru/t.php?t=2643 Костенко Владимир Полиевктович)の解説(2011年2月24日取得)
関連項目
[編集]- 聖スタニスラフ勲章(Орден Святого Станислава)
- アレクセイ・ニコラエヴィチ・クリロフ(Алексе́й Никола́евич Крыло́в)
- クリロフ部分空間(線形代数)
- トルベツコイ要塞(Трубецко́й бастио́н)
- イワン・コンスタンチノヴィチ・グリゴローヴィチ(Ива́н Константи́нович Григоро́вич)