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ウルタール・サール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウルタール・サール
ウルタール・サール
ウルタール・サール
(中央手前側がII峰、中央左側がI峰、奥はシスパレ峰)
標高 7,388 m
所在地 パキスタンの旗 パキスタン
ギルギット・バルティスタン
位置 北緯36度23分59秒 東経74度41分31秒 / 北緯36.39972度 東経74.69194度 / 36.39972; 74.69194座標: 北緯36度23分59秒 東経74度41分31秒 / 北緯36.39972度 東経74.69194度 / 36.39972; 74.69194
山系 カラコルム山脈バツーラ山群
初登頂 山崎彰人・松岡清司(1996年7月11日
ウルタール・サールの位置(パキスタン内)
ウルタール・サール
ウルタール・サール
ウルタール・サールの位置(アジア内)
ウルタール・サール
ウルタール・サール
プロジェクト 山
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ウルタール・サールウルドゥー語: آلتر سار‎)は、パキスタンカラコルム山脈バツーラ山群に属する10kmにわたる山群の総称。ボイオハグル・デュアナシール(「天を駆ける馬」の意)とも呼ばれる第1峰(7,329m)、第2峰(7,388m)、フンザ峰(6,270m)等からなる。第2峰の標高は世界70位。日本ではウルタルII峰として知られる。

概要

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中央右がII峰、中央がI峰。左はフンザ峰

8000メートル峰が全て攻略され、先鋭登山の主流が未踏の7000m峰に移った後に、政治的な理由などで入山が不可能だった山を除いた「最後の未踏峰」として残された難峰である。熾烈な初登頂争いが展開されたが、頻繁に発生する雪崩と落石、悪天候、ルート取りの困難さなどから一流の登山家を退け続け、「解の見つからない山」「7000mの高さにアイガー北壁を重ねたようなもの」と評された。

登山史

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  • 1984年7月28日 - 広島山岳会(三好忠行総隊長)の名越實、木佐英一、岡本良一がI峰に初登頂。2日後にも二次アタック隊の5人が登頂に成功。
  • 1985年 - キキ・パブロ(スペイン)隊、落石、氷塔の崩壊、雪崩の頻発により敗退。
  • 1986年 - 成田俊夫(日本・パキスタン・アメリカ合同)隊が5,500mまで到達するが、落石の頻発により敗退。
  • 1988年
  • 1990年 - 長谷川恒男(ウータン・クラブ)隊、7,020mまで到達するが悪天候のため敗退。
  • 1991年 - 長谷川恒男隊(長谷川恒男・星野清隆)の2名が雪崩に巻き込まれ遭難死。
  • 1992年 - 成田俊夫隊、悪天候により5,400mで敗退。
  • 1993年 - ノルウェー隊、悪天候により5,800mで敗退。
  • 1994年
    • ジュリアン・フリーマン(英米合同)隊、初の北面からの攻略が行われるが、悪天候により6,000mで敗退。
    • 高橋堅(カトマンズ・クラブ)隊、6,900mで敗退。黒川溶三郎隊員が墜落死。
  • 1996年
    • 7月11日 - 山崎彰人、松岡清司(碧稜山岳会)(日本山岳会東海支部)隊、南西壁をアルパインスタイルで初登頂。ABC(アドバンスドベースキャンプ)帰還後に山崎隊員が急死。
    • 7月31日 - カトマンズ・クラブ隊の5人が南稜ルートで第2登を果たす。
  • 2005年 - ヤニク・グラツィアーニ、クリスティアン・トロンスドルムが南東ピラー6,000m地点まで試登。
  • 2007年 - コリン・ハレー、ジェド・ブラウンが南東ピラーに挑むが敗退。
  • 2011年 - アルパインクライマーの佐藤裕介、一村文隆が南東ピラーに挑むも6,500mで敗退。
  • 2018年 - クリスティアン・ヒューバーが雪崩により遭難死。同パーティのティモシー・ミラー、ブルース・ノーマンが負傷し救出される。

関連項目

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