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エドウィン・スティーヴンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドウィン・スティーヴンス
Edwin Stevens
Edwin Stevens
生年月日 (1860-08-16) 1860年8月16日
没年月日 (1923-01-03) 1923年1月3日(62歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
職業 俳優映画監督
ジャンル 軽演劇サイレント映画
活動期間 1916年 - 1923年
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エドウィン・スティーヴンスEdwin Stevens, 1860年8月16日 - 1923年1月3日)は、アメリカ合衆国俳優映画監督である[1]

人物・来歴

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1860年8月16日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコに生まれる[1]

当初のキャリアは軽演劇的オペラで、のちに映画に転向するエセル・バリモアヘンリエッタ・クロスマンといったスター女優と舞台で共演していた[1]

満55歳のとき、1916年(大正5年)1月17日に公開された、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の「ブロードウェイ・ユニヴァーサル・フィーチャー」レーベルによる長篇映画 The Man Inside に、ティナ・マーシャルを相手役に主演して、映画界に転向した[1]。同年、インディペンデント・ムーヴィング・ピクチャーズ製作、ユニヴァーサル配給による The Capital Prize で監督業に進出する[1]。同年にユニヴァーサルが設立した子会社・ブルーバード映画で、ヴァイオレット・マースロウを主演に、『女優の操』(同年)、『寄宿生』(1917年)、 Susan's Gentleman (1917年、日本未公開)の3作を監督[1]、前2作は日本でも公開された[2]。1917年(大正6年)に監督した『怨の痣』を最後に監督業から撤退した[1]

1918年(大正7年)、フェイマス・プレイヤー=ラスキン製作、セシル・B・デミル監督の『情熱の国』に出演、以降、俳優業に専念する[1]メトロ・ピクチャーズサミュエル・ゴールドウィンの作品にも出演した[1]

最晩年まで映画出演を続け、1923年(大正12年)1月3日、カリフォルニア州ロサンゼルス市胸膜炎のため死去した[1]。満62歳没。

おもなフィルモグラフィ

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関連事項

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  1. ^ a b c d e f g h i j Edwin Stevens, Internet Movie Database (英語), 2010年5月11日閲覧。
  2. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.

外部リンク

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