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エドガー・ドガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドガー・ドガ
Edgar Degas
『自画像』(1855年)オルセー美術館
生誕 Hilaire Germain Edgar de Gas
(1834-07-19) 1834年7月19日
フランスの旗 フランス王国パリ
死没 (1917-09-27) 1917年9月27日(83歳没)
フランスの旗 フランス共和国・パリ
国籍 フランスの旗 フランス
著名な実績 絵画
運動・動向 印象派
影響を与えた
芸術家
メアリー・カサットジャン=ルイ・フォランウォルター・シッカート
ドガのサイン

エドガー・ドガフランス語: Edgar Degas 発音例1834年7月19日 - 1917年9月27日)は、フランス印象派画家彫刻家。フルネームはイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガHilaire Germain Edgar de Gas)。

略歴

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エドガール・ドガは1834年、フランスのパリ銀行家の息子として生まれた。家は比較的裕福であった。母親のセレスティーヌはニューオリンズ出身のクレオール(ドガは1872年の末から翌年にかけて5ヶ月間、ニューオリンズに住んだ)。「ドガ」(de Gas)という貴族風の苗字を持つが、ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワで、エドガールが生まれた頃にはさほど裕福ではなかったらしい。ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモート(fr)に師事した。1856年1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究している。

ドガは通常印象派の画家の一員とみなされている。確かにドガは1874年第1回印象派展以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからはカフェ・ゲルボワの画家グループにも参加していた[1]。しかし、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。ただし、ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を強く受けていることが小林太市郎によって指摘[2]され、日本におけるジャポニスム研究の発端となった。

ドガの作品には室内風景を描いたものが多い。初期の作品は海辺の情景などであったが、1870年代後半のモノタイプによる一連の作品では客と娼婦たちの姿が多く描かれた。そして1880年代半ば以降のパステル作品では、そうした特定の逸話的な場面でなく、閉ざされた部屋で黙々と日々の身づくろいに精を出す女の姿が描かれていく。野外の風景を描いたものは、競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、ドガの関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間であった。これにはドガが普仏戦争国民衛兵として従軍した際に寒さで目をやられたために俗に『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患っており、外に出ることがままならなかったことも関係しているとされる。殊にバレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの一瞬見せた何気ない動作を永遠化する素描力は秀逸である。写真技術にも強い関心を示し、マラルメルノワールが並ぶ有名な肖像写真が残されている。パステル画もよくした。パステル画に関しては、銀行家だった父が負債を隠したまま亡くなった上に兄が事業に失敗して負債を抱えたため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったから、という理由もある。また、晩年は視力の衰えもあり、デッサン人形として使用した踊り子、馬などを題材とした塑像や彫刻作品も残している。それらはドガの死後にアトリエから発見された。

また、ひどく気難しく皮肉屋な性格のため、画家仲間との衝突が絶えなかったが、晩年はドレフュス事件で有罪を主張したために、ゾラなどの数少ない友人を失ってしまったという。

「ロシアの踊り子たち」という名の作品もあったが、世情により2022年に「ウクライナの踊り子たち」に変更された[3]

ドガとバレエ

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バレエのレッスン(1874年頃、オルセー美術館所蔵)
"Classe de danse"

ドガの作品にはバレエを扱った主題、ことに楽屋や練習風景、舞台袖といった一般人では出入りできない場所での場面を描いたものが多い。当時、踊り子たちはオペラ座の「小さなネズミ」fr:Petit ratと呼ばれていた(語源にはさまざま説がある)が、彼女らの舞台裏をありのままに描いた。印象派の多くの画家たちとくらべれば、銀行家の息子であり裕福な家庭の出身であったドガは、バレエを好み、オペラ座の定期会員になっていた。座席を年単位で購入する定期会員は、オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていた(20世紀半ばにこの特権は廃止された)。当時、オペラ座の一般会員は上流階級の社交場でもあったので、父の逝去後、経済的には苦しくなった後にもドガは一般会員を続けていたものと思われる。ドガの描いたバレエの主題の多くはそこで見た風景である[4]

ドガの通った時代は、クラシック・バレエモダン・バレエがまだフランスには紹介されておらず、フランスはロマンティック・バレエの時代で、ドガの作品のバレエ風景はすべてロマンティック・バレエの風景となっている[4]

また、パリ・オペラ座の側でもドガに敬意を払い、ドガが1881年に発表した彫刻「14歳の小さな踊り子」をモチーフにしたバレエ作品を2003年、ドガも通ったガルニエ宮(いわゆる「オペラ座」の劇場である)で初演している[5][6]

代表作

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  • 『アイロンをかける2人の女』(1884年から1886年頃)(オルセー美術館)
  • 『マネとマネ夫人像』(1868年から1869年)(北九州市立美術館
  • 『馬上の散策』(1864年から1868年)(ひろしま美術館
  • 『赤い衣裳をつけた三人の踊り子』(1896年)(大原美術館
  • 『前肢を上げる馬』(馬の博物館[9]
  • 『髪を梳く女』 (1890から1892年頃) (オルセー美術館)[10]

関連書籍

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脚注

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  1. ^ 芸術新潮 原田マハの、泣ける! 印象派物語』2018年6月号、新潮社、 47頁。
  2. ^ 小林太市郎『北斎とドガ』全国書房(1946年刊)、新版「著作集 第2巻」淡交社(1973年刊)
  3. ^ ドガの作品「ロシアの踊り子たち」を「ウクライナの踊り子たち」に変更「題材をより的確に反映」”. 日刊スポーツ (2022年4月6日). 2022年4月6日閲覧。
  4. ^ a b 守山実花『魅惑のドガ エトワール物語』p.20
  5. ^ 守山実花『魅惑のドガ エトワール物語』p.22
  6. ^ 守山実花『魅惑のドガ エトワール物語』p.34-39
  7. ^ 中野京子『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』文藝春秋、2016年、235頁。ISBN 978-4-16-390308-8 
  8. ^ 1881年の第6回印象派展に出品。なお、発表時は蝋で作られており、顔には彩色が施され髪にはかつらを使用していた。1988年伊勢丹美術館『ドガ展』カタログ、174ページより
  9. ^ 『優駿』2011年8月号、174頁。 
  10. ^ 『岩波 世界の巨匠 ドガ』岩波書店、1994年4月22日、130‐131頁。 

参考文献

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関連文献

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(村田宏訳、西村書店、1999年、新版2009年)、同上
  • ケンダル・リチャード『舞台裏のドガ 美の再発見シリーズ』(村上能成訳、求龍堂、1998年)

関連項目

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