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エドマンド・アンドロス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドマンド・アンドロス
Sir Edmund Andros
第4代 ニューヨーク植民地総督
任期
1674年2月9日 – 1683年4月18日
前任者アンソニー・コルブ
後任者トマス・ドンガン
ニューイングランド王領総督
任期
1686年12月20日 – 1689年4月18日
前任者ジョセフ・ダドリー
後任者無し(王領が解体された)
バージニア植民地総督
任期
1692年9月 – 1698年5月
前任者エッフィンガム卿フランシス・ハワード
後任者フランシス・ニコルソン
メリーランド植民地総督
任期
1693年9月 – 1694年5月
後任者ニコラス・グリーンベリー
個人情報
生誕1637年12月6日
イングランドロンドン
死没1714年2月24日(1714-02-24)(76歳没)
イングランド、ロンドン
墓地ロンドン、ソーホー、セントアン教会
宗教聖公会
署名

エドマンド・アンドロス: Edmund Andros1637年12月6日 - 1714年2月24日)はイングランド北アメリカ植民地の管理者である。ニューイングランド王領が存在した3年間の大半で、その総督だった。それ以外には、ニューヨーク植民地総督、東ジャージと西ジャージー総督、バージニア植民地総督、メリーランド植民地総督を務めた。

北アメリカでの任務に就く前にはガーンジーの管財人だった。アンドロスの見解が絶対的に聖公会(イギリス国教会)寄りであり、多くのピューリタンがいたニューイングランドでは否定的な特性だったので、ニューイングランドでの任務は権威主義的であり荒れ狂っていた。その行動が原因で1689年ボストン暴動によってその地位を失うことになった。

ニューヨーク植民地やバージニア植民地では実効のある総督と考えられたが、どちらの場合も植民地の著名人の敵となり、その多くがアンドロスの排除に動いた。

このような反目にも拘わらず、イロコイ族との盟約のチェーンを幾つか交渉することができ、植民地とイロコイ連邦と関係があったインディアン部族との永続する和平を設立できた。その行動と統治は概してその職に任命されたときに受けた指示に従っており、彼を指名した君主や政府から称賛を得ていた。

アンドロスは1698年にバージニアからイングランドに呼び戻され、ガーンジーの管財人に戻った。ガーンジーに永住することはなかったが、その島の副総督に指名され、4年間務めた。アンドロスは1714年に死んだ。

初期の経歴

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アンドロスは1637年12月6日にイングランドのロンドンで生まれた。父はアミス・アンドロスであり、ガーンジーの管財人であり、国王チャールズ1世のゆるぎない支持者だった。母はエリザベス・ストーンであり、その姉妹は国王の姉ボヘミア女王エリザベスの取り巻きだった[1]イングランド内戦の時に、王党派の最後の砦であるガーンジーのコーネット城が1651年に降伏したときに、アンドロスがその場にいたという主張があるが[2][3]、それを裏付ける証拠は無い。1645年に母と共にガーンジーを脱出した可能性がある[4]1656年、叔父である騎兵隊長のロバート・ストーン卿に師事し、1659年にはコペンハーゲン解放など、デンマークでの冬の2つの作戦に従軍した。これらを経験した結果、フランス語スウェーデン語オランダ語に堪能になった[5]

アンドロスはステュアート朝が追放されていた間も、その忠実な支持者だった。チャールズ2世が王位に復帰した後、アンドロス家の支持を特に称賛した[6]

ボヘミア女王エリザベス、イングランド王チャールズ1世の姉、チャールズ2世の伯母

アンドロスはボヘミア女王エリザベスの廷臣を1660年から彼女の死んだ1662年まで務めた[7]1671年、アンドロスは、ヨークシャーのウェストライディング(現在のノース・ヨークシャー)のバーンソール出身のトマス・クレイブンの娘、メアリー・クレイブンと結婚した。クレイブンは女王の親密な助言者の1人だった[8][9]クレイブン伯爵ウィリアム・クレイブンの従弟の息子であり、長年アンドロスの後援者となった友人でもあった[5]1660年代、アンドロスはイギリス陸軍に入り、オランダに対する戦争に従軍した。1666年バルバドスに派遣されたトビアス・ブリッジ卿の連隊で少佐に任官された。その2年後にイングランドに戻り、伝言や文書を携えて行った[10]

ニューヨーク植民地総督

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1674年にアンドロスの父が死んだ後、ガーンジーの管財人を継承する者に指名された[11]ヨーク公ジェームズからニューヨーク植民地の初代領主総督にも指名された。この植民地の領土には元ニューネーデルラントの領土であった所も含まれ、1674年のウェストミンスター条約によってイングランドに割譲されていた。その中には今日のニュージャージー州ニューアムステルダムニューヨークと改名)からオールバニまでハドソン川沿いにオランダが確保していた領地、さらにはロングアイランドマーサズ・ヴィニヤードナンタケットまで含まれていた。

1664年、チャールズ2世が弟のジェームズにこれら領土の全てと、ケネベック川セントクロア川の間にある今日のメイン州までを渡していたが、オランダがその領土を再占領したために、チャールズはジェームズに新しい勅許を発行した[12]。アンドロスは1674年10月下旬にニューヨーク港に到着し、地元の代表者やオランダのアンソニー・コルブ総督とオランダ領の引き渡しを交渉し、それが1674年11月10日に成立した。アンドロスは既にある土地の所有権を確認し、オランダ系住民がその宗教であるプロテスタントを維持することを認めることに合意した[13]

コネチカット境界紛争

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アンドロスは隣接するコネチカット植民地の境界紛争にも巻き込まれた。オランダが当初その領土の東境界をコネチカット川まで拡張していたが、この主張は1650年のハートフォード条約で取り下げられ、1664年にはハドソン川から東に20マイル (32 km) の線を境界とするまで引き下げられていた。ヨーク公の領土に対する主張はこれを認めず、1675年、アンドロスはコネチカットの当局に対し、コネチカットの首都ハートフォードまでも含める領土の領有権を主張する意図を伝えた。コネチカットの指導者達はコネチカットの境界が後に改定されたと指摘したが、アンドロスはその主張に拘り、それら改定にはヨークが受けた払下げが優先すると論じた[14]。1675年7月にフィリップ王戦争が勃発したことを利用し、ヨーク公の主張を確定させるために小さな軍隊を乗せた船でコネチカットに行く口実にした[15]7月8日、コネチカット川河口のセイブルックに到着したとき、そこの砦がコネチカットの民兵隊に占領されているのを発見した。民兵隊はイングランドの旗を靡かせていた[16]。アンドロスは上陸し、砦の指揮官と短時間会話し、その任務を理解し、ニューヨーク市に戻った[17]。これが領土の主張を確認しようとしたアンドロスの行動の全てだったが、後にニューヨーク当局にその主張を確認させようとした時に、コネチカットでこのことが思い出された[18]

フィリップ王戦争

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アンドロスはコネチカット遠征の後、イロコイ族との関係を確立するためにその領内に向かった[19]。アンドロスは歓待され、オランダがイロコイ族に武器を供給していた慣習を継続すると合意した。この行動はフランスのイロコイ族との外交関係を鈍らせる効果があった。ニューイングランドではフィリップ王(ワンパノアグ族指導者メタコメットが英語ではこう呼ばれていた)と同盟するインディアンにアンドロスが武器を供給したことへの非難に繋がった。事実アンドロスはロードアイランド植民地に火薬を供給し、それが1675年12月にはナラガンセット族に対する大湿地戦闘で使われた。具体的にフィリップと同盟する部族へ弾薬を売ることが違法とされた[20]。この非難はアンドロスとマサチューセッツの指導者達との関係を悪化させたが、アンドロスはロンドンからの承認で行動しているに過ぎなかった[21]

フィリップ王のイラスト、ポール・リビア

アンドロスはイロコイ族との会合で「コーラー」という名を与えられ、それがその後のニューヨーク植民地総督をイロコイ族が呼ぶ時の名前になった(同様にフランスの総督は「オノンティオ」と呼ばれた)[22]。もう1つの成果としてオールバニにインディアン担当局を設立したことであり、ロバート・リビングストンをその初代局長とした[23]

フィリップはその冬、マサチューセッツ西部のバークシャーズに居ることが分かっており、ニューイングランドの人民はアンドロスが彼を隠していると非難した。19世紀の歴史家ジョン・フィスクはフィリップがイロコイ族を紛争に引き込もうとしたものの、イロコイ族が応じず、その代わりにモヒカン族をオールバニ攻撃という観望で引き込むことになった。アンドロスがニューヨークの軍隊をマサチューセッツに送ってフィリップを攻撃させるという提案が拒絶された。それはコネチカット川までの主権主張を再度行うための策略だと考えられた。その代わりにオールバニ地域のモホーク族がフィリップと戦闘し、東に追いやった[24]。コネチカット当局が後にアンドロスの支援を要請したとき、アンドロスはコネチカットがそうするのは以前の行動を考えると「奇妙な」ことだと答え、援助を拒否した[25]

1676年7月、アンドロスはモヒカン族などインディアンの戦争難民の避難所をシャハティコークに設立した[26]。1676年、紛争はニューイングランド南部で収束したが、北部のアベナキ族とイングランド人開拓者の間の摩擦は続いていた。このことで、アンドロスはヨーク公の領であるメインに軍隊を送り、ペマキッド(現在のブリストル)に砦を設立した。アンドロスはマサチューセッツの漁師が魚を乾すためにヨーク公の土地を利用することを制限したので、漁師達を悩ませることになった[27]

1677年11月、アンドロスはイングランドに戻り[28]、その次の年をそこで過ごすことになった。この間に総督としての業績を評価されてナイトに叙せられ[29]、貿易委員会に出席した。その席ではマサチューセッツ湾植民地の代理人がその植民地認証を弁護し、植民地の現状について詳細な説明を行った[30]

南部境界論争

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ヨーク公領土の最南部は概略現在のデラウェア州北部まで広がっており、メリーランド植民地の範囲をそこまで広げようとしていた領主ボルチモア男爵チャールズ・カルバートも望んでいた。同時にカルバートは北のイロコイ族との辺境での戦争を終わらせようとしており、メリーランドの領内であるポトマック川まで仲介役のサスケハノック族が移動してくるよう説得していた。さらにデラウェア湾を支配していたレナペ族はバージニアやメリーランドの開拓者が彼らの土地を横領することに不満であり、オランダがニューヨークを再占領した1673年には、これら人々の間に戦争が起ころうとしていた。

アンドロスがニューヨークに来た時、その状況を落ち着かせるために動いた。レナペ族の酋長達と仲良くなり、イングランド人と他の部族との間の仲介者になるよう説得した[31]。メリーランドでベイコンの反乱が起きたとき、和平が成立する寸前だった。それがポトマック川沿いのサスケハノック族の砦への攻撃となった。生き残ったサスケハノック族はある夜に砦から抜け出し、ある者は東のデラウェア湾の方向に向かった。1676年6月、アンドロスは、彼らが自分の管轄権内に移動してくる代わりに、バージニアやメリーランドの開拓者の中にいる敵から保護すると提案した。その提案はサスケハノック族の中に入って来ていたモホーク族にも及ぶこととした[32]。この提案は受け入れられたが、メリーランド当局はその同盟インディアンにアンドロスの提案する和平を受け入れるよう説得できず、彼らをまとめてデラウェアまで歩いて行かせた。それはその地域に対するメリーランドの権利主張を強化させる目的も果たすものだった[33]。アンドロスはサスケハノック族にメリーランドの影響が及ばなくなるニューヨークに戻って来るよう促すことで反応し、メリーランドにはサスケハノック族に対するアンドロスの主権を認めるか、平和的に連れ戻すかという強い言葉による脅しを送った。仲介者としての機能も提案し、サスケハノック族がメリーランドの開拓地を離れた今は、イロコイ族から直接攻撃される可能性があることを指摘した[34]

1677年2月と3月にレナペ族の村シャカマクソン(現在のフィラデルフィアがある場所)で開催された会合で、あらゆる関係者が集まったが、最終合意までは至らず、アンドロスはサスケハノック族にレナペ族と共に留まり、4月にはニューヨークの他の場所に散らばるよう命じた[35]。メリーランドはヘンリ・コージーをニューヨークに派遣してアンドロスと交渉し、最終的にはイロコイ族との和平となったが、同時にニューヨーク植民地がデラウェア湾で領有主張していた土地の区画割りを行うために測量士を派遣してもいた。コージーはアンドロスに事実上賄賂となる100ポンドを贈るよう指示されており、その土地と引き換えにインディアンとの和平の仲介を求めた。アンドロスがその賄賂を拒否し、コージーはオールバニでアンドロスやモホーク族にそれ以上交渉を強いるのを諦めた[36]。オールバニで1677年夏に続いた交渉で和平が合意され、それは盟約のチェーンと呼ばれる同盟と条約の基礎の1つと考えられている[37]

アンドロスはボルチモアがデラウェア湾の土地を幾らか払い下げることを防げなかったが、メリーランドの指導者がさらに大きな土地を支配する試みは弱らせることができた。ヨーク公は最終的にそれらの土地をウィリアム・ペンに譲渡し、そこは後にデラウェア州の一部となった[38]

ジャージーの支配

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ジョージ・カートレット卿、東ジャージーの領主

ジャージーの統治についてもアンドロスにとって問題を生じさせた。ヨーク公はハドソン川より西の領域を領主のジョン・バークレーとジョージ・カートレットに与えており、バークレーはその西側の部分(後に西ジャージーと呼ばれる)をクエーカー教徒の共同経営者に譲った[39]。バークレーはその領地の権利をこの集団には渡さず、ヨーク公がバークレーとカートレットに渡した権利の性質が問題となった。ヨーク公は1674年に自分に渡された2回目の勅許が、バークレーとカートレットに渡されていた前の勅許に代わるものだと考えていたことも一因だった[40]

このために、アンドロスが東ジャージーにその統治範囲を広げようとしたときに紛争になった。この地はカートレットの従弟であるフィリップ・カートレットがジョージのために統治を行っていた[41]。アンドロスはイングランド滞在中に与えられた命令に基づき、1680年にジョージ・カートレットが死んだ後は東ジャージーに対するニューヨークの権限を主張し始めた[42]。アンドロスとカートレット総督との間の友好的な個人関係があったにも拘わらず、統治の問題は結局アンドロスがカートレットを逮捕させる事態に発展させた。ハドソン川のジャージー側にある港で関税を集めることを中心とする論争が続いていた1680年、アンドロスはエリザベスタウンにあったフィリップ・カートレットの家に兵士1個中隊を送った。この事件に関するカートレットの証言に拠れば、彼は兵士に殴られ、ニューヨークの監獄に入れられたとのことである[43]

アンドロスが仕切ったカートレットの裁判で、あらゆる罪状に対して陪審員はカートレットを無罪とした[44]。カートレットはニュージャージーに戻ったが、逮捕の時にうけた傷がもとで健康を害し、1682年には死んだ[45]。この事件の後、ヨーク公がカートレットに与えた東ジャージーに対する権利主張を取り下げた[46]

ウィリアム・ペンが送った開拓者達が現在のバーリントン市を設立しようとしたときにも幾らか軽い問題が起こった。アンドロスはヨーク公の許可が無ければそこに入植する権利が無いと主張したが、彼らがニューヨーク総督の権限下に入る委託を受けることに合意した後で、入植を許した。この状況は、1680年にヨーク公がペンのために西ジャージーに残っていた権利を放棄したときに、恒久的に解決されることになった[47]

呼び戻しと分析

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植民地におけるアンドロスの政敵は、ヨーク公にアンドロスに対する多くの告発を行っていた。その中にはオランダ人実業家を贔屓しているというもの、ヨーク公のためよりも自分の利益のために事業に関わっているという告発もあった。ヨーク公の収入が本来あるべきものよりも少ないと主張する告発もあった。これが他の苦情に加わって、ヨーク公がアンドロスを事態釈明のためにイングランドに呼び戻すことになった。アンドロスは1681年1月に植民地を離れ、ニューヨーク植民地政府の管理はアンソニー・ブロックホルズに任せた。このイングランド訪問は短くなると期待し、妻はニューヨークに残して行った[48]

アンドロスはニューヨークにいる間に管理能力の優秀さを示せたと考えられたが、そのマナーは植民地人の中でもその敵から横柄だと考えられ、総督である間に多くの敵を作った[49]

ニューイングランド王領

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1686年、アンドロスはニューイングランド王領総督に指名された。1686年12月20日ボストンに到着し、即座に統治権を執った[50]。その任務は自身と評議会による統治を要求していた。当初の評議会の構成は、吸収された植民地それぞれからの代表であったが、旅行の不便さや旅行費用が賠償されないという事情のために、実際の評議員はマサチューセッツとプリマスの代表で占められていた[51]。ロンドンの貿易省は議会無しで統治することを主張したが、アンドロスがその任務について文書が作成される間に心配を表明していたことだった[52]。歴史家のヘンリー・ファーガソンがその小品『エドマンド・アンドロス卿」の中で証言していたのは[53]、議会に拠る政策の考慮は効率的でないことが分かったというものだった。

王領は当初マサチューセッツ湾植民地(今日のメイン州を含む)、プリマス植民地、ロードアイランド植民地コネチカット植民地ニューハンプシャー植民地、で構成され、1688年にはニューヨークや東西ジャージーまで広がっていた[54]。アンドロスの妻はボストンで合流したが、その到着から間もない1688年に死んだ[55]

イングランド国教会

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アンドロスはボストンに到着してから間もなく、ボストンのピューリタン教会にその集会所がイングランド国教会の礼拝に使えるかどうかを尋ねた[50]。これが否定されると、1687年にはサミュエル・ウィラードの第三教会に入る鍵を要求し、与えられた[56]。礼拝は1688年までロバート・ラトクリフ牧師の管理下にそこで行われたが、その年に国王の礼拝堂が建設された[57]。これらの行動が地元ピューリタンの目にアンドロスを聖公会寄りと映らせ[58]、後に「忌まわしいローマ法王の策謀」に関わったと告発されることになった[59]

歳入法

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アンドロスの評議会は王領に調和をもたらし、イングランドの法を適用させる長々しい手続きに関わった。この仕事は多くの時間を費やさせたので、1867年3月、アンドロスは既存の法が改定されるまでは有効であるという宣言を発した。マサチューセッツには既存の税法が無かったので、課税の計画が作られ、王領全体に適用されることになった。土地所有者の委員会で策定された最初の提案は、関税、主にアルコールから歳入を得ていた。多くの議論が行われた後、異なる提案が突然出てきて採択され、基本的に以前のマサチューセッツ税法を復活させた。これらの法は農夫には不人気だった。農夫は家畜にかかる税金があまりに高いと感じていた。アンドロスは即座に歳入を得るために、アルコールにかかる関税を値上げする承認も得た[60]

歳入法を執行しようという最初の試みは、マサチューセッツの多くの町から頑強な抵抗に遭った。幾つかの町はその人口や資産を評価するコミッショナーを選定することを拒み、多くの町の役人がその結果逮捕されてボストンに連れて来られた。ある者は罰金を取られて釈放され、ある者はその任務を果たすと約束するまで収監されていた。イプスウィッチの指導者達はその法に対する反対を最も強く表明した者達だったが、裁判にかけられ、軽犯罪で有罪とされた[61]

他の植民地は新法の執行に反対しなかった。ロードアイランドの場合は税率が以前の植民地政府の時よりも高くなっていたが、それでも反抗は無かった。プリマスの比較的貧しい土地所有者は家畜に掛かる高い税率のために大きな打撃となり、かつては個々の町で利益源となっていた捕鯨から上がる基金が王領政府に向けられることになった.[62]

タウンミーティング法

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税に関する抗議の1つの結果は、タウンミーティングが抗議の始まった場になったので、アンドロスがその開催を制限しようとしたことだった。それ故にタウンミーティングの開催を年1回に制限し、役人を選出することを唯一の目的とし、いかなる理由があろうとも他の時期でのミーティングを禁止する法律を提案した。このように地方の権限を失くすことは酷く嫌われた。タウンミーティングと税に関わる法は、人々の代表制に基づく課税を保証したマグナカルタに違背していると、多くの抗議の声が挙がった。このような苦情を言った者達は、教会員の要求を通じて数多い有権者を排除し、彼らに課税したことは注目すべきである[63]

土地所有権の改革

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アンドロスは、植民地の土地所有権に関する慣習をイングランドのものに合わせるよう指示されており、植民地の歳入を挙げる手段として、賃借中止を法制化した[64]。以前のマサチューセッツ、ニューハンプシャー、メインの植民地政府によって発行されていた土地の権利は、書式上の欠陥があることが多く(他とえば植民地章の押印が無かった)、その大半は賃借分の支払いを含んでいなかった[65]。コネチカットやロードアイランド植民地での土地払下げは、植民地認証が出る前になされたものであり、多くの地域で権利主張が問題となる場合があった[66]

アンドロスがこの問題に対処しようとした方法は必ずしも絶対的なものではなかった。土地の権利に疑義があるような土地所有者にとっては脅威となったからだった。土地所有者の中には確認手続きに入った者もいたが、多くの者はその土地を失う可能性を恐れて手続きを拒んだ。さらにその手続きは土地の所有権をあいまいにするとも見ていた[67]。プリマスとマサチューセッツのピューリタンの中には広大な土地を所有している者がおり、所有権の曖昧さを嫌う者達だった[68]。マサチューセッツの既存土地所有権の全てが、この時は失効した植民地認証の下に認められていたので、アンドロスは基本的にそれらが無効であると宣言し、土地所有者にはその所有権を再確認するよう要求し、王領にその料金を払い、賃貸中止への課金に従うよう要求した。

アンドロスは不法侵入の令状を発行することで土地所有の証明を強いようとしたが[69][70]、多くの土地を所有する大土地所有者は、その土地全てを再証明するよりも、これらの個々について争った[71]

コネチカット認証

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アンドロスの任務にはコネチカットが含まれていたので、コネチカット総督のロバート・トリートには、ボストン到着後まもなく植民地認証を取り下げるよう求めた。その役人が直ぐに王領に従ったロードアイランドとは異なり、コネチカットの役人は正式にアンドロスの権限を認めたが、アンドロスを援助することはほとんどしなかった。彼らは認証に従って植民地政府の運営を続け、四半期ごとに議会を開会し、植民地全体から選ぶ役人の選挙を行った。一方トリートとアンドロスは認証を取り下げることについて交渉を行った。

1687年10月、アンドロスはつにコネチカットに旅して自ら事態を監督することに決めた。衛兵を伴い、ハートフォードには10月31日に到着し、その夜には植民地の指導層と会談した。伝説に拠れば、この会合で認証はあらゆる者が見られるよにテーブルの上に広げられていた。部屋の灯りが突然消え、再度点灯されたときに、認証が消えていた。認証は近くのオークの木に隠されていたと言われており(後に認証オークと言われるようになった)、近くの建物を探しても認証を見つけられなかった。

フランシス・ニコルソン

その日のことで何が真であったとしても、コネチカットの記録はその政府が正式にその公章を取り下げ、その日に運営を止めたとしている。続いてアンドロスは植民地中を旅し、裁判官やその他の指名を行い、その後にボストンに戻った[72]。1687年12月29日、王領評議会は正式にその法をコネチカット州まで拡大し、ニューイングランド植民地の同化を完了した[73]

ニューヨークとジャージーの繰り入れ

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1688年5月7日、ニューヨーク植民地と、東西ジャージー植民地が王領に追加された。そこはアンドロスが居たボストンから遠かったので、副総督のフランシス・ニコルソンにニューヨーク市から運営させた。ニコルソンは陸軍の大尉であり、植民地担当大臣ウィリアム・ブラスウェイトの庇護者だった。1687年にアンドロスの衛兵としてボストンに来ており、その評議員に昇進していた[74]

1688年夏、アンドロスは初めてニューヨークに旅し、続いてジャージーに行って、その任務を確立した。ジャージーの王領による統治は、そこの認証が撤回された領主がその土地を保持しており、アンドロスに伝統的な荘園領主権を請願したので複雑なものになった[75]。ジャージーにおける王領時代は権力の中枢から遠かったこともあって比較的事件が少なく、1689年に突然王領が終わりを迎えた[76]

インディアンとの外交

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1687年、ヌーベルフランスの総督デノンヴィーユ侯爵が、現在のニューヨーク州西部にあったセネカ族の集落に攻撃を掛けてきた。その目的はオールバニのイングランドとセネカ族が属していたイロコイ連邦との間の交易を妨害することであり、アンドロスがニューヨーク総督時代に交渉した盟約のチェーンを壊すことだった[77]。ニューヨークの総督トマス・ドンガンが援助を要請し、国王ジェームズ2世がアンドロスに支援を行うよう命令してきた。ジェームズはフランス国王ルイ14世とも交渉し、フロンティア北西部での緊張関係を和らげられた[78]。しかし、ニューイングランドの北西フロンティアではアベナキ族がイングランド開拓者に対して不満を募らせており、1688年初期には攻勢を始めた。アンドロスはその年初期にメインに遠征を開始し、多くのインディアン集落を襲撃した。また交易基地も襲撃し、ペノブスコット湾沿いのジャン=ヴィンセント・ダバディ・ド・サン=カスタンの家も襲った。カトリックであるカスタンの礼拝堂を注意深く残したことは、後にアンドロスに対する「教皇支持者」という告発に繋がることになった[79]

「ボストンにおけるアンドロスの捕縛」、ウィリアム・A・クラフツによる『アメリカ開拓地のパイオニア』第1巻に所載、1876年

アンドロスが1688年8月にニューヨークの統治を引き継いだとき、オールバニでイロコイ族と会合し、盟約を更新した。この会合ではイロコイ族を「兄弟」(対等の関係を示唆する)ではなく、「子供たち」と呼んで(イングランドに対する臣従を示唆している)彼らを困らせた[80]。アンドロスはアベナキ族がニューイングランドのフロンティアを攻撃しているさなかにボストンに戻った。アベナキ族はフランスが奨励していることもあって、攻撃していることを認めていた。

アンドロスがニューヨークに居た間、メインにおける状況は再度悪化し、イングランド人開拓者がインディアンの集落を襲い、捕虜を取っていた。これらの行動はボストンに残っている王領評議員が発行する指示に従っており、フロンティア民兵隊の指揮官は襲撃に参加していると疑われるアベナキ族ならば誰でも拘束することになっていた[81]。この指示がメインで問題を生じさせた。女性子供を含むアベナキ族20名が植民地民兵隊によって捕虜にされた。地方の当局は捕虜を収容する場所の問題に直面し、先ずファルマスに、続いてボストンに送って、地域のインディアンを怒らせ、捕虜の安全な帰還を確保するためにイングランド人を捕虜にした[81]。アンドロスはメインの住民が是認されていない行動をとったことを非難し、インディアンを釈放し、メインに戻すことを命じた。捕虜交換の時に短時間の交戦が起こり、イングランド人捕虜の4人が死んだために、メインでは不満が爆発した[81]。アンドロスはこのような不協和音に直面し、それなりの戦力を率いてメインに戻り、開拓者を守るために追加砦の建設を始めた[82]。その年の冬はメインで過ごし、イングランドでの革命とボストンでの不穏の噂を聞いた3月にボストンに戻った[83]

暴動

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1689年4月18日、イングランドのジェームズ2世が王座を追われたという報せがボストンに到着してから間もなく、ボストンの植民地人はジェームズの支配に対して立ち上がった。よく組織された「暴徒」が市内を進み、王領役人と聖公会関係者を逮捕した。アンドロスは市の南部にあった駐屯所であるメアリー砦にその宿所を置いていた。そこには多くの役人が逃げてきていた[84]。古いマサチューセッツ植民地の指導層がこの反乱で権力を取り戻し、元総督のサイモン・ブラッドストリートを首長とし、アンドロス総督にはその安全のために降伏を勧めた。暴徒は「そこについて我々は全く無知である」と主張していた[85]。アンドロスは降伏を拒否し、その代わりに暴動当時にボストンの近くにいたイギリス海軍唯一の艦船であるローズに逃げ込もうとした。しかし、ローズから送られたボートが民兵隊に妨害され、アンドロスはメアリー砦に戻るしかなかった[86]。交渉が続き、アンドロスは反乱者の評議会と会合を持つために砦を出ることに合意した。安全を約束されたアンドロスは衛兵を伴い、評議会が集まっている町役場に向かった。その役場では「彼等(評議会)はその手に政府を掌握し、今後もそうなる」と告げられ、アンドロスは逮捕された[87]。その後王領の財務官ジョン・アッシャーの家に連れていかれ、密な監視の下に置かれた[87]

サイモン・ブラッドストリート、前マサチューセッツ総督

4月19日、メアリー砦が反乱者の手に落ちた後、アンドロスはアッシャーの家からそこに移された。そこでは6月7日までジョセフ・ダドリーやその他王領の役人と共に拘束され、その後はキャッスル島に移された。アンドロスが女性の衣服を着て逃亡を試みたのはこの時期だと言われている。この話は広く噂されたものの、聖公会の牧師ロバート・ラトクリフに言わせれば、「真実のかけらも無い」ものであり、「馬鹿話と嘘」が「総督を人民から嫌われるようにする」ために広められたと主張していた[88]。実際に8月2日、従僕が見張り番に酒を飲ませた後に、アンドロスはうまくキャッスル島から逃げ出すことに成功した。ロードアイランドまで行くことができたが、その後直ぐに再度捕捉され、その後は事実上独房に留め置かれた[89]。アンドロスやその他の役人は10か月間も拘束され、その後は裁判を行うためにイングランドに送られた[90]。ロンドンのマサチューセッツ代理人はアンドロスに対して作成された告発書への署名を拒んだので、裁判所は即座にそれを却下し、アンドロスを解放した[91]。アンドロスが自分に突きつけられていた様々な非難について質問されたとき、その行動は全て植民地の法をイングランドのものに合わせるために行われたものであり、あるいはその与えられた任務や指示を実行するために具体的に取られたものだと指摘した[92]

アンドロスがまだ拘束されている間に、ニューヨークのフランシス・ニコルソン副総督政府は、ジェイコブ・ライスラーが率いた軍隊によって同時に退陣させられており、この事件はライスラーの反乱と呼ばれるようになった[93]。ライスラーは1691年までニューヨークを統治していたが、新しく植民地総督に指名されたヘンリー・スローターが率いる軍隊に捕まえられ、処刑された[94]。アンドロスはイングランドに行くことを許された。その時点までにニューイングランド王領は事実上存在しなくなっており、その中にあった植民地はもとの政府形態に戻っていた[95]。マサチューセッツとその周辺領土は1691年にマサチューセッツ湾直轄植民地として再編成された[96]

バージニア総督

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アンドロスがイングランドに戻ると宮廷で歓迎された。特に国王ウィリアム3世はアンドロスがオランダで国王の宮廷を訪問したことを覚えており、アンドロスの貢献を認める意を表明した[97]。アンドロスは働き口を探しており、パリに行って追放された前王ジェームズに表面上会見するが、実際にはフランスの軍事計画を取得しようとするスパイの役を提案した。この計画は却下された[98]。アンドロスはイングランドに居る間の1691年7月、エリザベス・クリスプ・クラッパムと再婚した[99]。エリザベスはクリストファー・クラッパムの未亡人であり、クラッパムはその結婚によって、アンドロスの最初の妻との縁戚になっていた[100]

アンドロスの次の就職機会は、1692年2月、バージニア植民地総督のエッフィンガム卿が辞任した時だった。元王領副総督のフランシス・ニコルソンがこのときバージニア植民地副総督を務めており、上の位を狙っていたが、国王ウィリアムはアンドロスに総督の地位を与えた[101]。ニコルソンにはメリーランド植民地副総督の地位を与えた[102]。ニコルソンとの関係が他の理由で悪化していたために、このことはアンドロスの任務を難しいものにすることになった。この敵意の正確な理由は不明である。ある同時代人はニコルソンが「アンドロスに対して、以前の待遇について特別立腹したことがあったので特に不満を抱いた」と記していた[102]

アンドロスは1692年9月13日にバージニアに到着し、その1週間後には任務に就いた。ニコルソンは愛想よくアンドロスを受け入れ、それから間もなくイングランドに行った[103]。アンドロスはミドル・プランテーション(後のウィリアムズバーグ)に入り、1695年までそこで過ごした。ベイコンの反乱以来その維持が問題になっていた植民地の記録を整理し、奴隷の反乱を防ぐために考案された法の執行を進めた。

当時ほとんど全てタバコに依存していたバージニア経済の多様化を奨励した。当時は九年戦争1688年-1697年)が進行しており、商船は護衛付きで動く必要があったために、輸出志向の経済は悪い影響を受けていた。バージニアが軍事的に防衛されなかった数年間では、そこの生産品がヨーロッパの市場に運ばれ中他t。アンドロスは綿花アマなど新しい農作物の導入を奨励し、繊維の製造も勧めた。

バージニアはアンドロスが初めて土地の議会と協力しなければならなかった植民地の役職だった。バージニア議会との関係は概して協調的だったが、特に戦争や植民地の防衛に関する手段については幾らか抵抗があった。植民地の海域をパトロールさせる武装艦船を雇用したが、これはニューヨークの植民地防衛に財政的に貢献することとなり、フランスやインディアンがバージニアに侵入してくる可能性に対する防波堤を構築した。1696年、アンドロスは国王から軍隊をニューヨークに派遣するよう命じられ、それに対して植民地議会は渋々ながら1,000ポンドを割り当てた。アンドロスの植民地防衛とインディアンとの関係はうまくいった。バージニアはニューヨークやニューイングランドとは異なり、戦争中に攻撃されることは無かった。

アンドロスは在任中に著名な聖公会牧師であるジェイムズ・ブレアと敵になった。ブレアは聖公会の牧師を教育するための新しい大学設立のために動いており、アンドロスはそのアイデアを支持しないと考えていた。しかし、ブレアとニコルソンはこのアイデアを共に作り上げ、ニコルソンがメリーランドからしばしば訪れてこの件の協議をしていた[104]。この二人はアンドロスを嫌っていることでも協力し、その行動がアンドロスを辞任に追い込むことになった[102]ウィリアム・アンド・メアリー大学は1693年に設立された[104]。アンドロスが支持していないというブレアの主張があったにも拘わらず、アンドロスは大学の礼拝堂を建設するためのレンガ代を自身の基金から寄付し、植民地議会には毎年100ポンドの予算を割り当てさせるよう説得した[105]

ブレアの不平は、その多くが曖昧で不正確なものであったものの、ロンドンに連絡され、1697年には貿易省とイングランド国教会の宗教裁判所でアンドロスの行動に関する審問が始まった[106]。ロンドンでホイッグ党が権力を握ったときにアンドロスは貿易省の支持の大半を失い、その弁護も貿易省を自分の味方に引き寄せることはできなかった。聖公会の司祭はブレアとニコルソンを頑として支持した。1698年3月、アンドロスは疲労と病気を訴え、イングランドへの召喚を求めた[107]

晩年

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アンドロスの召喚は1698年5月にロンドンで宣せられた。後任はニコルソンとなった。アンドロスはイングランドに戻り、ガーンジーの管財人の職に戻った。その後はガーンジーとロンドンで時間を過ごした。ロンドンではデンマークヒルに家を持っていた[108]。後妻のエリザベスが1703年に死亡し、1707年にはエリザベス・フィッツヒーバートと3回目の結婚をした。1704年アン女王がアンドロスをガーンジー副総督に任命し、それを1708年まで務めた。1714年2月24日、アンドロスはロンドンで死に、ソーホーのセントアン教会に埋葬された。その妻は1717年に死にアンドロスの傍に埋葬された[109]。その教会は第二次世界大戦で破壊され、その墓の跡も残っていない[110]。アンドロスは3人の妻のだれとも後継ぎができなかった[109]

遺産

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アンドロスはニューイングランドで、特にコネチカットでは悪名が残っている。コネチカット州はその植民地総督の一覧から公式にアンドロスを外したが[111]、ハートフォードにある州会議事堂とは通り向かいの州立博物館の知事ホールには、アンドロスの肖像画が掛けられている。植民地では嫌われたが[49]、イングランドでは有能な管理者と見なされており、実行すべく命令された政策を遂行し、国王の計画を推進したと考えられている。伝記作者のメアリー・ルー・ラスティーグはアンドロスが「功績を残した政治家、勇敢な軍人、洗練された廷臣、忠実な公僕だった」が、そのやり方はしばしば「独裁的、専断的、専横的だった」としており、戦術に欠け、妥協を生むことが下手だったと記している[49]

同様にアンドロスはサミュエル・アダムズ・ドレイクによる1879年の小説『ネルソン船長』で敵を作る人として描かれ、「植民地時代のロマンス」と表現されている[112]

エリザベス・ジョージ・スピアの児童文学『からすが池の魔女』のエピソードの幾つかにはアンドロスが登場し、コネチカットの植民地人との紛争が主人公の個人的な問題の背景にされている。

バハマ諸島アンドロス島はアンドロスにちなむ命名だと考えられている。バハマの初期領主にはアンドロスの最初の妻の実家であるクレイブン家の者がいた[113]

脚注

[編集]
  1. ^ Whitmore, p. vi
  2. ^ Ferguson, p. 117
  3. ^ Manganiello, p. 234
  4. ^ Lustig, p. 26
  5. ^ a b Lustig, p. 29
  6. ^ Whitmore, p. ix
  7. ^ Ferguson, p. 119
  8. ^ Ferguson, p. 120
  9. ^ Whitmore, p. xi
  10. ^ Ferguson, p. 152
  11. ^ Whitmore, p. xiii
  12. ^ Brodhead, pp. 261–262, 265
  13. ^ Brodhead, pp. 270–271
  14. ^ Brodhead, p. 280
  15. ^ Brodhead, p. 284
  16. ^ Fiske, p. 48
  17. ^ Fiske, p. 49
  18. ^ Fiske, p. 218
  19. ^ Fiske, pp. 53–55
  20. ^ Fiske, pp. 57–58
  21. ^ Brodhead, p. 291
  22. ^ Fiske, p. 56
  23. ^ Brodhead, p. 287
  24. ^ Fiske, pp. 58–60
  25. ^ Brodhead, p. 292
  26. ^ Brodhead, p. 295
  27. ^ Fiske, pp. 60–61
  28. ^ Brodhead, p. 312
  29. ^ Fiske, p. 61
  30. ^ Brodhead, p. 316
  31. ^ Jennings, p. 141
  32. ^ Jennings, p. 149
  33. ^ Jennings, pp. 150–151
  34. ^ Jennings, pp. 152–153
  35. ^ Jennings, pp. 155–156
  36. ^ Jennings, pp. 157–158
  37. ^ Jennings, pp. 158–162
  38. ^ Scarf, pp. 257–259, 395
  39. ^ Brodhead, p. 266
  40. ^ Brodhead, pp. 267–269
  41. ^ Fiske, p. 93
  42. ^ Lustig, p. 109
  43. ^ Fiske, pp. 94–95
  44. ^ Brodhead, p. 334
  45. ^ Fleming, p. 13
  46. ^ Fiske, p. 97
  47. ^ Fiske, pp. 142–147
  48. ^ Brodhead, pp. 343–345
  49. ^ a b c Lustig, p. 16
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  54. ^ Barnes, pp. 32–39
  55. ^ Lustig, p. 160
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  63. ^ Barnes, p. 97
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  82. ^ Lustig, pp. 177–179
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  112. ^ Drake, Samuel Adams (1879). Captain Nelson: A Romance of Colonial Days. New York: Harper and Brothers. https://books.google.co.jp/books?id=Mv3HYPgf7HUC&pg=PA58&dq=edmund+andros+grumbled+about+taxes&hl=en&sa=X&ei=eLNGT73MEIGctwfw5LiGDg&redir_esc=y#v=onepage&q=edmund%20andros%20grumbled%20about%20taxes&f=false 23 May 2015閲覧。 
  113. ^ Stark, p. 131

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
官職
先代
アンソニー・コルブ
ニューネーデルラント総督として
ニューヨーク植民地総督
1674年2月11日 – 1683年4月18日
次代
アンソニー・ブロックホルス(代行)
先代
ジョセフ・ダドリー
ニューイングランド評議会議長として
ニューイングランド王領総督
1686年12月20日 – 1689年4月18日
王領解体
先代
エッフィンガム卿フランシス・ハワード
バージニア植民地総督
1692年–1698年
次代
フランシス・ニコルソン
先代
トマス・ローレンス
メリーランド植民地総督
1693年
次代
ニコラス・グリーンベリー
先代
ニコラス・グリーンベリー
メリーランド植民地総督
1694年
次代
トマス・ローレンス