エドワード・ブライ (第5代ダーンリー伯爵)
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第5代ダーンリー伯爵エドワード・ブライ(英語: Edward Bligh, 5th Earl of Darnley, FRS 1795年2月20日 - 1835年2月12日)は、イギリスの貴族、政治家。1896年まではクリフトン卿(Lord Clifton)と称した。
略歴
[編集]第4代ダーンリー伯爵ジョン・ブライ、その妻エリザベス(庶民院議員ウィリアム・ブラウンロウ閣下の三女)の次男として生まれる[1][2]。長兄ジョンが生後すぐに早世したため、次男でありながら法定推定相続人となった。
イートン校を経て1812年10月12日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学する。1816年に文学士号(Bachelor of Arts)、1819年に文学修士号(Master of Arts)を取得[3][4]。
1818年から1830年までホイッグ党所属[4]の庶民院議員として活動した[2]。1831年に襲爵したため、貴族院議員となった。1831年から1835年までミーズ統監を務めた[2]。1833年には王立協会のフェローとなった[4]。
1835年に破傷風により死去。コバムに葬られた[4]。伯爵位は長男のジョンが継承した。
家族
[編集]1850年8月31日、郵政長官を務めた政治家初代コングルトン男爵ヘンリー・パーネルの娘、エマ・ジェーン嬢と結婚。5人の子宝に恵まれた[5]。
- ジョン・スチュアート(1851年 - 1900年):第6代伯爵
- エドワード・ヴィージー閣下(1853年 - 1904年):クリケット選手、外交官
- エリザベス・キャロライン嬢(1830年 - 1914年):美術史家ライオネル・カストと結婚。
- エマ・ベス嬢(1832年 - 1917年):聖職者のアーサー・パーシー=カストと結婚。
- ヘンリー閣下(1834年 - 1905年) - クリケット選手、聖職者
脚注
[編集]- ^ http://www.proni.gov.uk/introduction__bath_and_brownlow_estate.pdf
- ^ a b c Farrell, Stephen (2009). "BLIGH, Edward, Lord Clifton (1795-1835), of Cobham Hall, nr. Gravesend, Kent and Clifton Lodge, nr. Athboy, co. Meath.". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年2月6日閲覧。
- ^ Foster, Joseph, ed (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886. A–D. Oxford. p. 123
- ^ a b c d The Complete Peerage, Volume III. St Catherine's Press. (1916). p. 85
- ^ Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P. (1914). Genealogical and Heraldic Dictionary of the Peerage and Baronetage of the British Empire. London: Harrison & Sons. p. 571
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Earl of Darnley
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジョン・ベイカー スティーブン・ランボルド・ラシントン |
カンタベリー選挙区選出庶民院議員 1818年 – 1830年 同職:スティーブン・ランボルド・ラシントン |
次代 リチャード・ワトソン フォードウィッチ子爵 |
名誉職 | ||
新設官職 | ミーズ統監 1831年 – 1835年 |
次代 第14代ダンセイニ男爵 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ブライ |
ダーンリー伯爵 1831年 – 1835年 |
次代 ジョン・スチュアート・ブライ |