ジョン・ブライ (第4代ダーンリー伯爵)
第4代ダーンリー伯爵ジョン・ブライ(英語: John Bligh, 4th Earl of Darnley FRS、1767年6月30日 – 1831年3月17日)は、イギリスの貴族。1781年までクリフトン卿の儀礼称号を使用した。
生涯
[編集]第3代ダーンリー伯爵ジョン・ブライとメアリー・ストイットの息子として1767年6月30日に生まれ、1781年7月31日に父が死去するとダーンリー伯爵の爵位を継承した[1]。1784年11月16日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1793年7月3日にDCLの学位を修得した[2]。コバム・ホールという邸宅に住んだという。
第4代ダーンリー伯爵はアマチュアのクリケット選手であり、1789年から1796年までファーストクラス・クリケットの試合で通算27回参加した。弟エドワードとともにケント・カウンティのクリケット・チームを応援した[3]。2人は「アイルランド初のファーストクラス・クリケット選手」と呼ばれたという[4]。
1829年、第6代レノックス公爵および第3代リッチモンド公爵チャールズ・ステュアートの妹キャサリンの血をひいていたことを根拠に、国王ジョージ4世に対しレノックス公爵の爵位への請求を提出した[1]。第6代レノックス公爵が1672年に死去したとき、爵位は国王チャールズ2世が継承したが、チャールズ2世の父チャールズ1世の男系男子の血筋は1807年のヨーク枢機卿公ヘンリーの死去で絶えていた[1]。請求は貴族院に回されたが、貴族院が決定を下すことはなかった[1]。
1831年3月17日に死去、長男が夭折したため次男エドワードが爵位を継承した[1]。
ジョン・リチャードソンは現カナダ領ノースウエスト準州のダーンリー湾を第4代ダーンリー伯爵にちなんで命名した[6]。
家族
[編集]1791年8月26日、エリザベス・ブラウンロー(1831年12月22日没、ウィリアム・ブラウンローの娘)と結婚、4男3女を儲けた[1]。
- キャサリン(1792年6月18日 – 1812年1月10日)
- ジョン(1793年5月22日 – 6月3日)
- エドワード(1795年 – 1835年)
- メアリー(1796年5月31日 – 1823年6月18日) - 1822年6月1日、チャールズ・ブラウンロー(後の初代ラーガン男爵)と結婚、子供あり
- ウィリアム(1797年5月17日 – 1807年10月18日)
- ジョン・ダンカン(1798年 – 1872年) - 外交官、スウェーデン駐在大使、ハノーファー王国駐在大使
- エリザベス(1872年11月13日没) - 1833年7月19日、いとこにあたるジョン・ブラウンローと結婚、子供あり
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Burke's Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (99th ed.). London: Burke's Peerage Limited. 1949. p. 544.
- ^ Foster, Joseph (1888–1892). . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Oxford: Parker and Co. ウィキソースより。
- ^ Arthur Haygarth, Scores & Biographies, Volume 1 (1744–1826), Lillywhite, 1862
- ^ "The first Irish first-class cricketers", CricketEurope Ireland, 30 August 2016. Retrieved 31 August 2016.
- ^ "Bligh; John (1767 - 1831); 4th Earl of Darnley". Record (英語). The Royal Society. 2019年6月14日閲覧。
- ^ Gazetteer of the Northwest Territories Archived 27 September 2013 at the Wayback Machine.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Earl of Darnley
アイルランドの爵位 | ||
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