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エンデルーン学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新古典主義建築の作例である、エンデルーン学校の図書館。

エンデルーン学校(エンデルーンがっこう、英語: Enderun Schoolオスマン語: اندرون مکتب‎ Enderûn Mektebi)は、寄宿制宮殿学校英語版で、おもにデヴシルメ徴兵制度)によって集められたオスマン帝国イェニチェリたちを対象とし[1]キリスト教徒の子どもたちをイスラム教化してオスマン帝国政府の官僚や管理者、軍人としてのイェニチェリに育成する仕組みであった[2][3]。数世紀もの間、エンデルーン学校は、オスマン帝国内の様々な民族集団から人材を集め、彼らに共通したイスラム教の教育を施すことによって、帝国における統治者層の養成に成功した。この学校は、エンデルーン英語版、すなわちオスマン帝国の君主の宮内庁によって運営されており、学術的な側面と軍事的な側面の両面を持っていた[4]。卒業生は、政府の公務に挺身することが求められており、社会の下層集団から切り離されていた[2]

エンデルーン学校の恵まれた教育プログラムは、優秀な人材を対象とした世界最初の制度的な教育体制であったとされてきた[5][6][7]

エンデルーン学校のヒエラルキー
帝国内の青年たち(緑)から選抜されアナトリアでオスマン文化への同化が図られ、次の段階に進めない者は一般の兵士となる(青)。一部がイスタンブールの7つあるエンデルーン管轄下の学校のいずれかに進み、次の段階に進めない者はイェニチェリの軍人となる(赤)。宮殿学校に進んだ者は、科学者や教員(左)、あるいは行政官(右)となる(黄)。一部は、ワズィール(大臣)、大宰相まで上り詰める(青)。

歴史

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オスマン帝国の拡大は、統治者層の選抜と教育によるものであり、またそれに依存もしていた。メフメト2世が目標としていたローマ帝国に相当するものの復興を実現する上で、重要な要素となったのは、帝国内の優秀な若者たちを集め、彼らを政府の役に立つ人材へと鋳造していくことであった。メフメト2世は、父であるムラト2世が設立した既存の宮殿学校を改善し、イスタンブールにエンデルーン学院を設けた[4]

建物

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トプカプ宮殿第三の庭園には、皇帝の財務局や、「ムハンマドのマント」を納めた聖遺物堂英語版とともに、エンデルーン学校の最高位のエリートたちとオスマン家の王子たちが学ぶ宮殿学校の建物などがある。宮殿学校には7つの堂、ないし、学年級があり、各学年級にはそれぞれ12人の教員がいて、生徒たちの精神面や学習面の発達に責任を持っていた。生徒たちは、それぞれの到達水準に応じた特別な制服を着用し[8]、バーネット・ミラー (Barnette Miller) によれば、付設された施設として、図書館、モスク、音楽院、寄宿舎、浴場があったという[9]

カリキュラム

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エンデルーン学校は、宮殿外に設けられた3つの予備学校と、宮殿内の本校 から構成されていた。ミラーによれば[9]、3つの予備学校には1,000人から2,000人の生徒がおり、宮殿内の最上位校には300人ほどの生徒がいたという。カリキュラムは大きく5つの部門に分けられていた[10][11][12]

エンデルーン学校の課程を修了した者は、少なくとも3つの言語に通じ、最新の科学を理解し、少なくとも何らかの職能なり芸術を身につけ、軍事の指揮において優れ、また、近接戦の戦闘技術にも長けていた。

シクマ(卒業)

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エンデルーン学校を修了した者の卒業式典は「シクマ (çıkma)」と称される[13]。卒業生のことも同様に「シクマ」と呼ぶ[14][15]。シクマの文字通りの意味は、「離れること」ないし「引き抜くこと」である。ペイジ小姓侍従などに相当)たちは、宮廷での業務に従事しながら宮殿学校で学ぶが[3]、学校を卒業すると、宮殿での職務も離れ、それぞれの職能訓練を継続することになる[16]。このような「異動」は2年から7年ほどの期間をおいて、あるいは新しいスルタンが即位した際におこなわれていた[17]

首尾よく卒業した者たちは、その能力に応じて、行政や学問など重要な役職に就いた[18]。この学校の最もはっきりとした特徴は、注意深く段階分けされた報酬と懲罰の仕組みであった[11]

エンデルーン学校の役割はオスマン帝国の初期には特に大きく、16世紀末までの大宰相はほとんどがエンデルーン学校の卒業者であったが、18世紀頃にはその影響力は低下し、十余名の大宰相のうちエンデルーン学校の出身者は1人だけになっていた[19]

脚注

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  1. ^ Farhad Malekian; Kerstin Nordlöf (17 January 2012). The Sovereignty of Children in Law. Cambridge Scholars Publishing. pp. 249–. ISBN 978-1-4438-3673-9. https://books.google.com/books?id=jTYsBwAAQBAJ&pg=PA249 
  2. ^ a b Kemal H Karpat "Social Change and Politics in Turkey: A Structural-Historical Analysis" page 204
  3. ^ a b c 永田, 2001, p.65.
  4. ^ a b M. Sencer Corlu; Burlbaw, L. M., Capraro, R. M., Han, S., & Çorlu, M. A.. “Corlu, M. S., Burlbaw, L. M., Capraro, R. M., Han, S., & Çorlu, M. A. (2010). The Ottoman palace school and the man with multiple talents, Matrakçı Nasuh. Journal of the Korea Society of Mathematical Education Series D: Research in Mathematical Education, 14(1), 19–31. M. Sencer Corlu”. Academia. 2018年11月19日閲覧。
  5. ^ Senel, H. G. (1998). Special education in Turkey. European Journal of Special Needs Education 13, 254–261.
  6. ^ Cakin, N. (2005). Bilim ve sanat merkezine zihinsel alandan devam eden ogrencilerin akranlari ile okul basarilari acisindan karsilastirilmasi. Unpublished masters thesis, Afyon Kocatepe Universitesi, Afyon, Turkey.
  7. ^ Melekoglu, M. A., Cakiroglu, O. & Malmgren, K. W. (2009). Special education in Turkey. International Journal of Inclusive Education 13(3), 287–298. ERIC EJ857857
  8. ^ Deri, M. (2009). Osmanlı Devletini cihan devleti yapan kurum: Enderun Mektebi. Populer Tarih. Retrieved from http://www.populertarih.com/osmanli-devletini-cihan-devleti-yapan-kurum-enderun-mektebi/
  9. ^ a b Miller, B. (1973). The palace school of Muhammad the Conqueror (Reprint ed.). NY: Arno Press.:初版は1941年、Harvard historical monographs, Number 17。
  10. ^ Ipsirli, M. (1995). Enderun. In Diyanet Islam ansiklopedisi (Vol. XI, pp. 185–187). Istanbul, Turkey: Turkiye Diyanet Vakfi.
  11. ^ a b Akkutay, U. (1984). Enderun mektebi. Ankara, Turkey: Gazi Üniversitesi Eğitim Fak. Yay.
  12. ^ Basgoz, I. & Wilson, H. E. (1989). The educational tradition of the Ottoman Empire and the development of the Turkish educational system of the republican era. Turkish Review 3(16), 15.
  13. ^ Murphey, Rhoads (20 October 2011). Exploring Ottoman Sovereignty: Tradition, Image and Practice in the Ottoman Imperial Household, 1400-1800. A&C Black. p. 345. ISBN 978-1-4411-0251-5. https://books.google.com/books?id=hZCQlHyjGygC&pg=PA345. "...exiting from the palace service (çıkma)..." 
  14. ^ ́goston, Ga ́bor A; Masters, Bruce Alan (1 January 2009). Encyclopedia of the Ottoman Empire. Infobase Publishing. p. 452. ISBN 978-1-4381-1025-7. https://books.google.com/books?id=QjzYdCxumFcC&pg=PA452 
  15. ^ Türk dünyası kültür atlası: The Seljuk period. Türk Kültürüne Hizmet Vakfı, Turkish Cultural Service Foundation. p. 207. https://books.google.com/books?id=h3U_AQAAIAAJ. "After a set period of training and instruction, most of the graduates (Çıkma) were assigned to mil- itary units; the very ..." 
  16. ^ Woodhead, Christine (15 December 2011). The Ottoman World. Routledge. p. 167. ISBN 978-1-136-49894-7. https://books.google.com/books?id=jt_FBQAAQBAJ&pg=PT167 
  17. ^ Jefferson, John (17 August 2012). The Holy Wars of King Wladislas and Sultan Murad: The Ottoman-Christian Conflict from 1438-1444. BRILL. p. 84. ISBN 90-04-21904-8. https://books.google.com/books?id=FpvqWWpUYSoC&pg=PA84 
  18. ^ Armagan, A. (2006). Osmanlı’da ustün yetenekliler fabrikası: Enderun Mektebi. Yeni Dünya Dergisi 10, 32.
  19. ^ 永田, 2001, p.67.

参考文献

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  • 永田雄三「オスマン帝国における近代教育の導入:文官養成校(ミュルキエ)の教師と学生たちの動向を中心に」『駿台史学』第111号、2001年、63-90頁。  NAID 40002010610

外部リンク

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