エンリコ・アルベルトージ
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名前 | ||||||
愛称 | リッキー | |||||
ラテン文字 | Enrico Albertosi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1939年11月2日(85歳) | |||||
出身地 | ポントレーモリ | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
代表歴 | ||||||
1961-1972 | イタリア | 34 (0) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エンリコ・アルベルトージ(Enrico Albertosi, 1939年11月2日 - )は、イタリア・ポントレーモリ出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはGK。
経歴
[編集]クラブ
[編集]スペツィアでユース時代を過ごしたのち、1959年1月ACフィオレンティーナに所属していた18歳の時にセリエAデビューを果たした。フィオレンティーナでは2度のコッパ・イタリア優勝など4つのタイトルを獲得した[1]。
1968年にルイジ・リーヴァ擁するカリアリ・カルチョに移籍。すると1969-70シーズンにはクラブ初であり唯一となるセリエA優勝に貢献した。
1974年にACミランに移籍すると、在籍6年間でセリエAとコッパ・イタリアをそれぞれ1度ずつ獲得した[2]。
しかし1980年には八百長スキャンダル「トトネロ」に関与していたとして、2シーズンの出場停止処分を受けた。その後、1982年にエルピディエンセで現場復帰し、2年後の1984年に現役を引退した。
代表
[編集]1961年のアルゼンチン代表戦でイタリア代表にデビュー。
1970 FIFAワールドカップには、カリアリでの活躍により、ライバルとして知られたディノ・ゾフとのポジション争いに勝ち、正GKとして全試合に先発出場した[3]。「世紀の試合」や「アステカの死闘」と呼ばれることになる準決勝の西ドイツ代表戦でも活躍を見せた。
エピソード
[編集]ACミランの後輩にあたるジャンルイジ・ドンナルンマが、2017年にクラブとの契約延長を拒否した際には、批判の声を上げた[4]。
所属クラブ
[編集]- 1954-1958 スペツィア・カルチョ (0試合0得点)
- 1958-1968 ACフィオレンティーナ (185試合0得点)
- 1968-1974 カリアリ・カルチョ (177試合0得点)
- 1974-1980 ACミラン (170試合0得点)
- 1982-1984 エルピディエンセ (44試合0得点)
代表歴
[編集]脚注
[編集]- ^ “SERIE A 1968/69: FIORENTINA – Storie di Calcio” (イタリア語). 2019年1月9日閲覧。
- ^ “Enrico Albertosi”. www.magliarossonera.it. 2019年1月9日閲覧。
- ^ “Dino Zoff, un portiere leggendario: dal flop all'Udinese ai successi con Juventus e Nazionale=”. GOAL (2023年2月23日). 2023年8月26日閲覧。
- ^ “ミラン退団決定のドンナルンマ…レジェンドGKが怒る!”. Qoly. 2019年1月9日閲覧。