コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

オスカー・ギャンブル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オスカー・ギャンブル
Oscar Gamble
1977年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アラバマ州レイマー
生年月日 (1949-12-20) 1949年12月20日
没年月日 (2018-01-31) 2018年1月31日(68歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
165 lb =約74.8 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 16巡目
初出場 1969年8月27日
最終出場 1985年8月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

オスカー・チャールズ・ギャンブルOscar Charles Gamble, 1949年12月20日 - 2018年1月31日)は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の、MLBで活躍した元プロ野球選手

"Big O"という愛称で知られた。

略歴

[編集]

シカゴ・カブス時代

[編集]

1968年6月7日シカゴ・カブスからドラフト16巡目で指名を受け、6月18日に選手契約を結んだ。1969年8月27日にカブスでメジャーデビューを果たした。1969年は24試合に出場し、打率.225・1本塁打・5打点という成績を記録。

フィラデルフィア・フィリーズ時代

[編集]

1969年の11月17日ディック・セルマ投手と共にフィラデルフィア・フィリーズにトレードされた(このトレードでフィリーズはジョニー・カリソン外野手をカブスに放出。更に翌1970年1月ラリー・コルトン投手をカブスへと放出し、トレードが完了した)。1970年はフィリーズで88試合に出場したが、打率.262・1本塁打・19打点・5盗塁という成績しか残せなかった。1971年は、若干ながら出場機会が増え、打率こそ.223という低打率に終わったが、6本塁打・23打点という数字はいずれも1970年のものを上回った。しかし、1972年は74試合に出場したものの、打数は前の2年間と比較すると100以上も減少。打撃成績も打率.237・1本塁打・13打点という低水準なものに終わった。

クリーブランド・インディアンス時代

[編集]

1972年11月30日ロジャー・フリード外野手と共に、クリーブランド・インディアンスへとトレードされる事に(トレードでフィリーズに加入したのはデル・アンサー外野手とマイナーリーグ選手のテリー・ウェッジウッド)。移籍1年目の1973年は、主に指名打者として113試合に出場。打率.267・20本塁打・44打点という成績を残し、自身初の20本塁打をクリアするなど、パワーを発揮した。続く1974年も、指名打者中心に135試合に出場。規定打席に到達し、打率.291・19本塁打・59打点という安定した成績を残した。因みに1974年はギャンブルにとって、唯一の規定打席に到達したシーズンとなった。1975年は、軒並み打撃成績は低下したが、一方で自身初の2ケタ盗塁(11盗塁)を記録した。

ニューヨーク・ヤンキース時代

[編集]

1975年11月22日に、パット・ドブソン投手との交換でニューヨーク・ヤンキースへとトレード移籍する事になった。インディアンスでは主に指名打者として試合に出場していたが、ヤンキースへ来てからはライトがメインの出場となった。その移籍1年目となる1976年は、110試合の出場で17本塁打を放ち、相変わらずのパワーを見せ付けた。

シカゴ・ホワイトソックス時代

[編集]

1977年4月5日にマイナーリーグ選手のボブ・ポリンスキーラマー・ホイト投手、そして200,000ドルと共に、バッキー・デント遊撃手と交換でシカゴ・ホワイトソックスへと放出。ヤンキースに在籍したのはわずか1年だった。しかし、1977年はギャンブルにとって自己最高といっていいシーズンになった。6月終了時点で63試合の出場で、13本塁打と前年を大きく上回るペースでホームランを生産。その勢いは7月に入っても止まるところを知らず、残りのシーズンで74試合に出場し、打率.329・18本塁打・50打点・OPS1.056と打ちまくった。そして、最終的には打率.297・31本塁打・83打点という好成績をマーク。シーズン終了後のMVP投票でも票数こそ少なかったものの、29位にランクインした。因みに、1977年は13.2打数に1本のペースでホームランを放っており、これはリーグ1位の数字である(1977年のギャンブルは規定打席には届いていないが、残りの打席全てが凡退だったと仮定してもリーグトップとなるため、記録上もリーグ1位として扱われる)。そして、シーズン終了後の10月28日にFAとなった。

サンディエゴ・パドレス時代

[編集]

同年11月29日サンディエゴ・パドレスと契約を結んだ。前年に31本塁打を放っていた為、パドレスでも主砲として期待された。しかし、1978年のシーズンは126試合の出場で打率.275・7本塁打・47打点と、期待を大きく裏切った。

テキサス・レンジャーズ時代

[編集]

1978年10月25日デーブ・ロバーツ三塁手と共にテキサス・レンジャーズにトレードされた(トレード相手はマイク・ハーグローブ一塁手、マーク・ベバッカ三塁手、ビル・フェイヒー捕手の3選手)。レンジャーズ移籍1年目となる1979年は、ホームランこそ少なかったものの、64試合で打率.335・8本塁打・32打点と大爆発した。

再びヤンキースへ

[編集]

大活躍していたギャンブルだったが、シーズン中の8月1日の大型トレードで古巣のヤンキースへ復帰する事になった(ギャンブルと共にヤンキースに移籍したのは、後日に決定したマイナーリーグ選手のエイモス・ルイス。その交換相手は、こちらも後日決定となったミッキー・リバース外野手。更に同年の10月8日にトレードの続きが行われた。レンジャーズはレイ・フォンテノージーン・ネルソン両投手をヤンキースへ放出。ヤンキースがいずれもマイナーリーグ選手のニール・マーシュマーク・ソフティ、それに以前ギャンブル絡みのトレードでヤンキースへ移籍していたボブ・ポリンスキーの3選手をレンジャーズへ放出。これによってトレードが完了した)。レンジャーズに所属していた時でさえ、大いに打っていたギャンブルだったが、ヤンキース移籍後は打撃好調に拍車が掛かった。移籍後はわずか36試合にしか出場していないにもかかわらず、打率.389・11本塁打・32打点というハイペースで打ちまくった。1979年の2チーム通算成績は100試合の出場で、打率.358・19本塁打・64打点という成績だった。翌1980年は、1年間通じてヤンキースでプレイ。流石に1979年ほどの打率は残せなかったものの、78試合の出場で14本塁打を放つなど、持ち前の長打力は存分に発揮した。続く1981年もヤンキースに所属。80試合の出場で10本塁打と、ホームランこそまずまずのペースで打っていたが、打率は.238と振るわなかった。1982年は、3年ぶりに100試合以上に出場(108試合)。打率.272・18本塁打・57打点・6盗塁と復調した。1983年は、5年ぶりに本塁打が10を下回った。そして、シーズンオフの11月7日にFAとなったが、1984年4月17日にヤンキースと再契約を結んだ。その1984年は、10本塁打をクリアしたが、打率は.200を下回るなど、年齢的にも衰えが感じられるシーズンとなった。

再びホワイトソックスへ、そして引退

[編集]

1984年11月8日に自身3度目のFAとなった。そして、年明けの1985年3月23日に古巣のホワイトソックスと契約を結んだ。しかし、8月12日にホワイトソックスを解雇された。結局、解雇されるまでに70試合に出場したが、打率.203・4本塁打・20打点という成績に終わった。その後、所属先を見つけられぬまま、現役を退くことになった。

選手としての特徴

[編集]

20本塁打を超えたのは2度だけだが、400未満の打数で15本以上のホームランを放ったシーズンが5度もある。通算では22.5打数に1本の割合でホームランを放っている。

守備面では、外野手としての出場が818試合で、他には一塁手として1試合に出場したことがあるだけである。指名打者としての試合出場も561試合ある。

走塁面では1975年に11盗塁を記録したことがある。

左投手に弱いとされていた[1]

グリップを膝上ほどに乗せた極端に屈んだバッティングスタンス、帽子からはみ出るアフロヘアーといった特徴は一度見たら忘れられない選手であった。 スタンス通りローボールヒッターとして知られていたという。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1969 CHC 24 81 71 6 16 1 1 1 22 5 0 2 0 0 10 1 0 12 1 .225 .321 .310 .631
1970 PHI 88 305 275 31 72 12 4 1 95 19 5 4 2 0 27 3 1 37 8 .262 .330 .345 .675
1971 92 309 280 24 62 11 1 6 93 23 5 2 3 4 21 2 1 35 1 .221 .275 .332 .607
1972 74 157 135 17 32 5 2 1 44 13 0 1 0 2 19 0 1 16 4 .237 .331 .326 .657
1973 CLE 113 432 390 56 104 11 3 20 181 44 3 4 3 2 34 1 3 37 4 .267 .329 .464 .793
1974 135 509 454 74 132 16 4 19 213 59 5 6 0 2 48 10 5 51 7 .291 .363 .469 .833
1975 121 405 348 60 91 16 3 15 158 45 11 5 1 1 53 4 2 39 8 .261 .361 .454 .815
1976 NYY 110 384 340 43 79 13 1 17 145 57 5 3 2 0 38 4 4 38 4 .232 .317 .426 .743
1977 CHW 137 470 408 75 121 22 2 31 240 83 1 2 1 1 54 2 6 54 3 .297 .386 .588 .974
1978 SD 126 437 375 46 103 15 3 7 145 47 1 2 0 5 51 11 6 45 2 .275 .366 .387 .753
1979 TEX 64 201 161 27 54 6 0 8 84 32 2 1 0 2 37 11 1 15 6 .335 .458 .522 .979
NYY 36 126 113 21 44 4 1 11 83 32 0 0 0 0 13 1 0 13 1 .389 .452 .735 1.187
'79計 100 327 274 48 98 10 1 19 167 64 2 1 0 2 50 12 1 28 7 .358 .456 .609 1.065
1980 78 229 194 40 54 10 2 14 110 50 2 0 0 3 28 4 4 21 2 .278 .376 .567 .943
1981 80 227 189 24 45 8 0 10 83 27 0 2 0 2 35 2 1 23 4 .238 .357 .439 .796
1982 108 382 316 49 86 21 2 18 165 57 6 3 0 4 58 2 4 47 4 .272 .387 .522 .910
1983 74 208 180 26 47 10 2 7 82 26 0 0 0 0 25 1 3 23 3 .261 .361 .456 .816
1984 54 151 125 17 23 2 0 10 55 27 1 0 0 1 25 0 0 18 1 .184 .318 .440 .758
1985 CHW 70 184 148 20 30 5 0 4 47 20 0 0 0 1 34 3 1 22 1 .203 .353 .318 .671
通算:17年 1584 5197 4502 656 1195 188 31 200 2045 666 47 37 12 30 610 62 43 546 64 .265 .356 .454 .811

脚注

[編集]
  1. ^ ヤンキースなどで活躍、68歳で死去のオスカー・ギャンブルの野球人生”. Full-Count (2018年2月3日). 2021年5月31日閲覧。

外部リンク

[編集]