カーディリー教団
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カーディリー教団(阿: القادريه)とは、アブド・アルカーディル・アルジーラーニーを祖とする[1]、イスラム教スーフィズム教団(タリーカ)の1つ。
歴史
[編集]1077年に現在のイランのギーラーン州に生まれたアブド・アルカーディル・アルジーラーニーは、バグダッドへと上京し、Abu Sa'id al-Mubarak Mukharramiの学校(マドラサ)に入学して学んだ。1119年にMukharramiが亡くなった後は、彼が新たなリーダー(シャイフ)となり、学者および説教師として人気を集め、彼のためのリバート(修道場)が作られた。
1166年に彼が亡くなると、息子の1人Abdul-Wahhabがシャイフを継いだ。当時のバグダッドでは、スフラワルディーが創始したスフラワルディー教団が、1180年からアッバース朝第34代カリフになったナースィルの後援を得て隆盛していたが、息子の1人Abdul al-Razzaqはそれに対抗して父ジーラーニーの聖人伝を刊行し、スーフィーとしての父の業績・名声を広めた。
カーディリー教団は、1258年のバグダードの戦いでバグダッドが陥落し、アッバース朝が滅びた後も、書物と共に各地に伝播し、繁栄した。15世紀末までに、 モロッコ、スペイン、トルコ、インド、エチオピア、ソマリア、マリに支部が出来た。
1508年から1534年まで、サファヴィー朝がバグダッドを支配した際は、このカーディリー教団のリーダー(シャイフ)が、地域の筆頭スーフィーに指名された。
1534年、オスマン帝国がバグダッドに侵攻した際には、スレイマン1世は教祖ジーラーニーの霊廟を建て、カーディリー教団をバグダッドにおける同盟相手とした。
1674年、リーダー(シャイフ)であるKhwaja Abdul Allaは、中国(清朝)に入り、1689年に亡くなるまで各地を巡って説教した。その弟子にはQi Jingyi(祁静一)などがいる。
その他、オスマン帝国が征服した欧州地域や、インド南西部ケーララ州などにも、カーディリー教団は伝播した。